48. 科学技術の進化

 科学技術の好ましい進化は持続可能な社会の発展につながるものであってほしいのであるが、見方を変えるとそのことは仮に緩やかであっても常識が変わることでもあり、社会の支配側の強い勢力はその情況を維持したいというように動く(ざっくり言えば、保守勢力といってもよい)から、常識を崩すのはそうは簡単にはいかないことは察しが着く。

昨年はDNAの2重螺旋構造が2人のノーベル賞受賞の科学者(ノーベル賞のエピソードによれば、功績のあった科学者はほかにもいたらしいが)によって発見されて半世紀にあたり、くしくもヒトゲノムの塩基配列の解読が完了した記念すべき年となった。その一方、研究の先端では常識が崩れ始めているとのニュースがある。それはジャンクといわれる、遺伝には関与しないとされていたDNA部分にも、実は遺伝や、発生に影響を及ぼす情報が隠されていたことがわかりつつあるのだという。
素人的な感想かもしれないが、きわめて長い時間をかけて進化をしてきた生命体の基本設計図がほとんど白紙というのはなんとなく合点がいかないものの、それが今の科学の常識だと言い切られるとそんなものかと思ってしまう、そこが常識の怖い側面だろう。DNAより長い間の常識が脳の分野でも崩れ始めているらしい。成人してからも脳の一部は自らを一新することができるのだそうである(この話で勇気付けられた人は多いに違いない)。


この両者の例は、科学の発見の中にあって、これまで未解明であったことがわかるということとは違う発見であるから、すんなりと学会誌に掲載されたのだろうかということが脳裡をかすめる。学会の発行する論文誌や、商業誌にもかかわらず多くの研究者が掲載を目指しているNATURE、SCIENCEなどは、査読の制度があって、ピアレビューと称した、専門家の仲間のレフリーの専門的な判断を仰ぐ過程が存在する。
この過程は、今のところ当事者以外には原則的には公開されていない。密室の判断が科学の進化の速度の低下をもたらした事実もあったことが後々明らかにされてきた例もあるとはいえ、今社会がいろいろな場面で求めている透明性を単純に主張していいプロセスでもないことも理解はできる。
とはいうものの、もう少し工夫はできないものだろうかという気もする世界でもある。査読を通じての、データの追加や、考察についての議論などは研究者が鍛えられる場面として有用である。

しかし先の例のように、学会常識が覆るようなきっかけとなった論文(あるいはレター)の査読では、レフリーが保守的に振舞うこともあろう。本来科学者は、科学技術に対しては革新的であるはずなのに、立場が人の言動を支配する側面も無視できない。常識との対峙は、このような場合だけではない。民間企業での開発、事業化においても似たような争いが繰り返されている。いつの場合も常識を覆そうとする勢力よりも、抵抗勢力のほうが強いといっていい。この関係は論文審査においても変わらないと見たほうがいいだろう。
いずれのケースも勝負は時間軸の上でのことであり、査読のキャッチボールをしていても、論文が掲載に至らない場合はもちろんのこと、他の研究者が別の論文誌において先を越すことが起こらないとも限らないし、民間での事業化はやや趣をことにするとはいえ、当事者の心情は根っこの部分では同じかもしれない。ただ、開発、事業化のケースでは、仮に他社に先を越されても(そのこと自体も耐え難いことには違いないが百歩譲って)、その外圧を利用して、力があれば一気に抜くことも可能であるから研究者よりは多少救われるといえば言えよう。
しかしオリジナリティー勝負の研究者にとっては、査読そのものに猜疑的にならざるを得ないような(きつい言い方であるがアイデアが盗まれるといったことも皆無とはいえなかったような話も聞いた)心境になるくらい、最初に発表する機会を自分のものにできるかどうかはきわめて重要なことである。なかなか受理されそうにないときに、別の論文誌にアプローチするかなどは現実に悩むところなのだろうと思う。
最初に発表するということでは、学会での口頭発表もあるが、むしろ特許出願を利用するのもひとつではないか(もちろん特許として認められる分野に限られるが、以前よりは特許も知の競争の場として注目され権利の及ぶ範囲が広くなっていく傾向にある)。この領域事務所でも多くの論文投稿、掲載を確認しているが、圧倒的に国内の論文誌への投稿は少ない。


逆に、日本の学会誌に海外の研究者が投稿を競って進めていることでもない。国内の論文誌もその存在意義グローバルに高めていく上で、査読論文掲載とは別企画で従来学説を覆すレター、論文は無査読で掲載するといった試みを辛抱強く続けてみたらいかがであろうか?これは邪道だとばっさり切られてしまいそうな提案に過ぎないかもしれないが、科学の進化を素直に早めようとするには、権威が何かを牛耳って時間を止めてしまった愚を嘗て科学の歴史の中で繰り返してきたことを少なくできないかと言った問題提起として捕らえてほしいものである。

ナノサイエンスや、ナノテクノロジーの研究は、量子力学に部分的な見直しを迫るかもしれない。長い目で見れば、それはとめられないことかも知れないが、当研究領域の総括である梶村 博士が研究者に向かってよく言うように研究の青春は決して長くないのである。研究者が白熱の議論をすることは重要であるが研究者同士が足を引っ張るように結果としてなることは少なくなっていって欲しいと願っている。競争とフェアは相容れるものであるはずである。
                                    篠原 紘一(2004.4.5)

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