36. 阪神甲子園球場に

 2003年9月15日と、8月23日に、阪神甲子園球場に監督の偉業をたたえるように、勝利の女神が舞い降りた。星野監督率いる阪神タイガースのセリーグ優勝と、木内監督率いる常総学院高校野球部の全国制覇である。
いずれにも共通しているのは、選手は地味であるのに(相対的にの話である)、監督がその選手たちの力を解放し、ファンはもちろんのこと、関心の薄い層にも鮮烈な印象を与えたことであろう。阪神の優勝は18年ぶり、木内監督にとっての夏の全国優勝は19年ぶりの快挙なのである。阪神の優勝の余韻が冷めないが、今回のコラムの主題は高校野球である。

2003年8月23日、第85回全国高校野球選手権記念大会は、茨城代表 常総学院が制して、72歳の名将木内監督の引退に教え子たちがこれ以上は無いといった花を添えて幕を閉じた。
今年は気圧配置のメリハリが弱く季節感が崩れてしまっている中での大会であり、雨にもたたられた。その影響もあって、現場にて観戦できたのは3日間と筆者の観戦ヒストリーの中で最短の年になってしまったが、今年の大会を振り返る。


戦前の予想(朝日新聞の担当記者たちの)では優勝の行方は4校が軸になるとみられていた。
筆頭は松坂(現:西武)を擁して春、夏の連覇を達成した横浜以来の春夏連覇をかけた広陵高校で、常総学院高校は対抗馬として挙げられていた。
残りの2校は近江高校、智弁和歌山高校であった。常総学院高校以外は、くしくもすべて2回戦で敗れた。軸となる4校を追走するチームとしてあげられた8校の中で、ベスト8までに残ったチームは、ただ1校、決勝戦で悲願であった深紅の大優勝旗の白河関越えを目指して健闘、惜しくも敗れた宮城代表の東北高校だけであった。準決勝に残った、群馬代表、桐生第一高校、島根代表、江の川は予想を超えた大健闘であった。
担当記者を弁護するわけではないが、夏の甲子園は予想が難しいのである。トーナメントでありながら、準々決勝の組み合わせが直前の抽選で決まることや、試合を重ねるたびに明らかに強くなるチームがあったり、力が拮抗している場合は、流れがどちらに傾くかは色んなケースがあったりするなど、予想を難しくする要因を挙げればきりがない。

しかし、大会を開会式から3回戦までを現場で見ると、今年は組み合わせ抽選がどうなろうと、ここが優勝するなというのがわかる年のほうが多い(これは筆者が足しげく甲子園球場に通って高校野球を観戦する大きな楽しみの一つでもある)。
戦前の予想で試合巧者で対抗の軸に挙げられていても、名将木内監督は、今回優勝できると思って臨んではいなかったのではなかろうか。しかし、1回戦をかろうじて突破し(前評判のよいチームも甲子園の初戦は甘く見たら、苦汁を飲まされることが実に多い)、2回戦に智弁和歌山(平成に入って、優勝2回、準優勝1回の強豪で、高嶋監督の采配も、言うところの木内マジック同様に関心事で、監督対決でもあった)相手に、快勝し、優勝できるかもしれないと確信に近いものを持ったのではないか。それ以降打つ手は変化はあったが、戦い方は固まって、それが決勝戦まで通用してしまったように見えた。


チーム型のスポーツも、競争力のベースは個人の力であるが、最も重要なのは個人の力を強めあう相互作用がチームに根付いていることであろう。特に野球は、サッカーやラグビーと違って、いわゆる球出しの初期条件がまったく違うし、監督が選手と同じベンチに入って戦い方の組み立てを柔軟に、即時的に行えるなど、監督の影響はきわめて強く選手たちに影響を与える。木内監督にとって、今年の勝利は50年の長きにわたって追求してきた高校野球のあり方をすべて出し切ったような大会だったのではないか。

高校野球ファンにとって、とりわけ夏の大会は、個人史とダブルことが多い。筆者の場合も例外ではなく、ビデオ用途の蒸着型磁気記録テープの最初の事業化準備の苦闘の時期とオーバラップする大会の一つが昭和59年の大会であった。昭和59年(1984年)の優勝戦は延長10回8対4でPL 学園高校を茨城県代表の取手二高が破ったのであるが、そのときの監督が木内さんなのである。
この優勝は世間をあっといわせた優勝であったのは、あの桑田、清原(今でも巨人軍でがんばっておられるが・・・・そうそう、阪神の優勝にいやみを言うつもりは無いが、憧れの甲子園と憧れの阪神がほとんど不一致なのが筆者には不思議である)を擁して、昭和58年と、阪神が掛布、岡田、バースの猛虎ぶりで優勝した昭和60年に全国制覇をしたPL学園を倒しての優勝だったからである。
この優勝戦はテレビをつけて、試作されたビデオデッキを複数台用いて、ビデオテープに録画をして、記録時の欠陥が無いかどうかを再生して目視で検査するというプログラムの作業の一環で、職場で取手二高の初優勝までの戦いぶりを見てしまったのである(記録時にテレビをつける必要などは無かったのは当然であるが)。もちろん、アルバイトの女子高校生たちと10巻のビデオテープに記録時の目に付く欠陥はなかったことは翌日、目視で確認した。本当に、まじめに仕事をしていたのかと問われそうであるが、木内さんがインタビューで「野球が好きで、勝つことが好きで、ただ長くやってきた」と応えた言葉に蒸着型磁気記録テープ開発の19年がダブる。
世の中に何らかの足跡を残すということでは、基礎研究も胸を張ってこう言えるようでありたい。

                                              篠原 紘一(2003.9.19)
                                                   
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