153.ショックレーの貢献

 

 今年は6年ぶりにエキサイテイングなノーベルウイークになった。物理学賞3人、化学賞が一人、しかし、ノーベル財団は、南部先生(米国籍)下村先生(米国での研究の功績が対象だから?)ともどもUSAとしてカウントしているようであるが、頭脳流出がどうとか、順番を待っている科学者があまたいる中でなぜ今この功績に対してなのかとかいろいろあるのでしょうが、日本の元気につなげたいことであることは間違いない。

 

 今から60年前(1948)、米国のベル研究所でトランジスタが一般公開された。その6年後には、テキサス・インスツルメンツが生産を開始、真空管が固体素子に変わることのインパクトがいくら大きいとはいえ、信じがたいスピード感である。それから2年後にはショックレー、バーデイーン、ブラッテンの3人がトランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞している(極めて感覚的だが、日本人3人よりすごい!研究グループから3人ですから)。テキサス・インスツルメンツのトランジスタ生産開始の翌年にはショックレーはショックレー・セミコンダクタ社を設立している。

 

 ただ、最初のトランジスタは点接触型であって、その発明にはグループリーダーのショックレーは係わってはおらず(日本では発明にかかわっていなくても上司が発明者として名を連ねるのに、アメリカでは誰の発明ということが前面に出される。こういったところにも本質を外した問題を抱えて日本は走ってきたといえよう)、より実用化に有利な接合型の理論を打ち立てたというからすごい話である。

 

 筆者は入社してすぐ、シリコンへのイオン注入の実験を始めたが、イオン注入の基本的な発明もショックレーが成し遂げていたのに驚いたことを今でも覚えている。彼の科学技術の功績はトランジスタといえばショックレーの名前が出るくらい突出したものであるが、彼の科学技術の才能とは別の面で彼は今日のシリコン産業への道を拓くうえでも貢献があったとの見方がある。

 

 半導体の世界で有名なムーアの法則を見出した、ゴードン・ムーアとともに後のインテルの創業者になったロバート・ノイスら若い技術者はショックレー・セミコンダクタ社のショックレーの経営方針と衝突を繰り返している間に、社長がノーベル賞を取ってしまったために、社長を更迭できず自分たちが飛び出し、1957年フェアチャイルド社を設立、1960年には世界初の集積回路の発売を成し遂げる。IBMが大型電子計算機を、DECがミニコンを発売、1968年にはインテルが設立され、世の中を大きく変えていくきっかけとなる1メガDRAMの発表とつながっていった物語に、ショックレーが反面教師として貢献したのだという意見を言う人もいる(ショックレーが科学者としてだけでなく、経営センスもあれば、別の展開になったかといえば、まったく別の歴史が刻まれたようには思えないくらい後にシリコンバレーとなっていく西海岸には時代の追い風が吹いていたのだと筆者は感じるのだが)。

確かに名選手、名監督ならずとか、研究者として大きな実績を残したが弟子が育っていないとか、その逆だとか言った話はままあることのようではある。人間関係で起こる軋轢は双方に言い分があって、真相に迫るのは難しい。経営的にはショックレー・セミコンダクタ社は失敗したという事実は残るが、シリコンデバイスの道を拓いた貢献は偉大で、経営者としての評価で薄まるものではない。

 

それにしても、ベル研での発明から、集積回路、コンピュータの出現にいたる、この短期間の動きをみていると、基礎研究の社会貢献を今声高に叫んでいることが不思議な気がするくらいのダイナミズムである。科学技術が進歩を続けた結果、膨大な知が蓄積されたが、社会が求める新しいものを生み出すハードルがどんどん高くなってきたということも理解した上で、科学技術の成果を待ちたいものである。

 


                                   篠原 紘一(2008.10.10

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