137. 研究現場は

 大学や国の研究機関を訪問してみてまず感じたことは、ビルがたくさん建ったということである。次の印象は、研究室の中で(研究分野や研究室の歴史にもよるから、共通的な風景といえるものでないことはお断りしておく)整然と機械装置が空間的に余裕を持って並んでいる研究室もないわけではないが、新しいビルでも、研究室はピカピカというわけにはいかず、所狭しと実験装置が並んでいて、実験室と倉庫が合体したような部屋も少なくない(大学法人化以降、コンプライアンスが強化され、見た目の環境も改善されていっている傾向にあるとは感じられるが)。

40年前筆者が大学院の学生であったときと比べると、時の流れを感じさせられることがいくつもあることに気が付く(もちろん筆者の経験は当時でも特異的であったと思われるので、一般化して議論できることではないと思うが)。
40年前は原子力工学の博士課程のある大学は片手に満たなかった(大学院が先にできて、学部が後からといった大学もあった)。
このような黎明期であったから、講座もバックグラウンドは電気、電子、物理、化学、機械など多岐にわたり、教授を頂点にしたピラミッド型の研究室がどこでも出来上がっているわけではなく、原子力全体としても講座ごとの壁もずいぶん低かったと思う。また学生の出身大学もバラエテイーに富んでいた(この状況は、今単色化による海外との競争力の改善で必要とされている環境に近いものがあった)。
さらに特異であったのは、原子力講座立ち上げの時期には研究室は通常のビルではなくて小高い丘の上に散在する旧軍事施設(スペースは十分余裕があったが廃墟に近い印象を持つような施設であった)内にあった(医学部や工学部は市内から現在のキャンパスに移転をしたが、それまでの数年間は)。

今でも徹夜の実験などに対応する仮眠用のソファーのある研究室はよく見かけるが、筆者は友人と教室4つ分くらいの広い空室の一画に、木製のテーブルや長いすなどで暮らしのスペースを確保して下宿を出て実験室の隣で暮らした。友人は民間企業から送り込まれてきた研究生で山登りが趣味で自炊が得意なことから、自然と自炊に近い生活になっていった。近くの市場のおばちゃんたちに苦学生として(?)何かとおまけをしてもらって助けられた。研究のテーマは博士課程後期の先輩と二人で組んで多価イオン源の開発を選んだ。

分析化学の権威が原子力に転身したばかりの研究室で、放射性同位元素を使っての化学系のテーマがほとんどであったが、その中で唯一物理よりのテーマであったからである。放射性同位元素のヨー素がベータ崩壊するときに真空中であれば不活性元素であるキセノンが多くの外殻電子を失った20価以上のイオンも確認される。この多価イオンをどうハンドリングするかは先々考えるとして、まずイオンビームとして取り出せるようにしようという計画を立てて、実験計画を練った。

 幸いにして、質量分析器を部分改造して探索研究できることになり、新型のイオン収集機構の設計試作からはじめた。研究といっても、実際の作業時間は多くはなく、実験と実験の間の待ち時間も多く、論文を読んだり、議論をするといってもデータが次々出てくる状況にはなかなかならなかったことと、職住接近の極限状況にあったことから、1年ほどで卓球の腕前だけはかなりのレベルに達した。最初のうちは遊びで、ゲームばかりやっていたが、博士課程後期の別テーマを進めている先輩が僕にもやらしてくれるかとやってきた。「篠原君もだいぶうまくなったらしいが、今から5分ほど練習させてもらったあとに、ゲームをして君が3ポイントとったら君の勝ちにしてあげる」と言われ、練習を始めた。久しぶりにラケットを握ったという相手のミスで勝つには勝ったがまったく歯が立たなかった。
聞くとなんと国体に県の代表で出たというではないか。それ以降、時折夜中にポイントを教えてもらいながらとにかく豊富な練習量をこなしたからである。卓球とは異なり、研究室や身近に蓄積のない研究を一から始めて、論文投稿まで持っていくのは簡単ではなかった。

しかし、この2年間の大学院生活は、風変わりな思い出に満ちていただけでなく、後の生き方に大いに影響を与えたことになった。ひとつは、良識は大事だが、規則はあるようなないようなところがある(解釈と運用)ということを保安の方との付き合いで学んだことである。研究室のある棟で自炊生活をしていたし、夜中遅くには卓球をしているし、自然に保安の方と親しく話す機会が増えていって、(保安の方は、今と違って大学の先生のステータスは高かったこともあって、先生方や先生の卵の大学院生とは挨拶以外で話すことなどないといっていた)距離のない付き合いができるようになった。そのときは格別な意識は持たなかったが、民間企業に就職して、大型プロジェクトで、新しい試みをふんだんに入れた大型実験装置はトラブルことが多く、勤務時間は極めて不規則な状況になった。のめりこんで実験していると次こうしてみたいという思いが強くなり、勝手に徹夜の実験をし仮眠を現場で取ることもあった。

こんな場面では規則でしかりつける保安の方もいたが、多くの人は見守ってくれ、体を壊さないようにと、保健室のベッドを提供してくれるようにまでなった。世の中には異なる役割を担った多くの立場があるが、人としての距離はないという考えが身についていったことは、特に大型プロジェクトでの貢献に有効であった。

もう一つ大きかったのは、論文や、商品化にすぐつながる、組織にとって本流で技術蓄積も多く、実験装置などもそろっている分野でないところで一から組み立てていく仕事をやってみようと思い、耐えていく力も身についていくきっかけになったことである。

昨今、成果主義が行き過ぎ(?)、評価におびえる(先行き不安の裏返しでもあり、評価制度そのものが悪だとはいえないが)若い研究者が増える傾向が強いと聞く。スポットライトを浴びている分野には競争的資金も集中し、論文は出しやすくなるであろうが研究が成果を急ぐあまり粗雑になると警告する声もある。夢にかける研究者が多少減るのは致し方ないとしても、日本から消えてしまわないように踏ん張れる制度支援も視野に入れた施策がほしいものである。



                              篠原 紘一(2007.11.22)

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