127. 責任

 久間防衛相が、先の大戦で米国が、広島、長崎に投下した原爆は「しょうがない」と発言、辞任に追い込まれた。参議院選挙の結果いかんでマスコミの論調も変わるのであろうが、さまざまな不祥事などが明るみに出たときの責任を取るということはどういうことか、責任とはそもそもどういうことなのかがきちっと総括されないで進むから、似たようなことが繰り返されるのではないかといった印象を持つ。
 人間は原子からできてはいても、「シュレデインガーの猫」のように生きている状態と、死んでしまっている状態を同時にとるといった量子的な振る舞いはできない。

人生は選択の繰り返しである。その選択は一つの状態しかとりえないわけだし、時間は一方向に流れて巻き戻せないのであるから、ついうっかりとか言うことは確かに起こりうることではある。だから経験をつみながら、うっかりミスを少しでも減らす努力をするのである。同じ発言をしても、立場によって影響力や、発言の重みが違うことは実社会に出れば早い時期に経験的に学ぶはずである。それでもこういったことが繰り返される理由のひとつは、自分の代わりはいないと(余人をもって代えがたいといったレベルまで行かなくても)勘違いする(自分は世の中のプラスになっていることが多い。少々のミスで起こる引き算は無視できると勝手に判断する?)人がある割合でいるということなのかもしれない。
 責任を取るということは、最近頻繁にマスコミが取り上げる、官、民を問わない不祥事においても、そのメカニズムは案外複雑なものである。
本来は責任を取るということと、責任を全うするということは同義のはずなのにそうでないことが起こる。責任ということについて鮮烈に感じ取った経験をひとつ紹介したい。

 ビデオカメラの規格決定に参画し(8ミリビデオとデジタルビデオであるDVフォーマット)要素のひとつである磁気テープ開発とその事業化に携わったときも貴重な経験のひとつである。
そんなときに、軽井沢で磁性の勉強会があって、講師の一人として筆者も呼ばれた。規格が決まって、それぞれの会社が事業の準備を進めていた時期で、蒸着テープに関して筆者が、8ミリビデオの全体についてS社のKさんが話しをした。一泊二日の勉強会で同宿になり、その夜に意気投合してしまった。新しいビデオについての考え方で共感することが多くあり、その考えが実際にそれぞれが責任を持つ現場で実践されていくことがお互いによくわかって、それぞれが会社を背負いつつも、小気味良い関係ができていった。

 8ミリビデオの高画質化(Hi8)の規格が後に議論されたときに、蒸着テープの推奨規格を決める場に筆者は呼ばれた。M社としては、8ミリビデオの事業は見送った状況であったから、磁気テープも次を(いつ、どうなるかまったく読めていないにもかかわらず)目指して細々と開発していた時期にである。数社のメンバーが集まっていたS社のKさん以外は技師長、や技監(そのとき名刺交換をした方ばかり)が会社代表で参加していた。(各社各様の提案内容で結論が出ない、こう着状態だったようだ)。

そこでKさんに言われた。「現行の蒸着テープを基準にどこまで性能を上げられるか。このレベルなら事業性を含めて大量に作れるはずだというのがわかる人にきてもらった。みんな従うから高画質モード用のテープの規格を決めてくれ」と急に言われた。筆者はそのときは、課長職であった。
後に、「あれでよかったですかね?」と聞くと、「役職の上下なんか関係ありません。責任を持てる人が判断すればいいことですよ」とKさんはあっさりと言った。その後も、DV規格決め、事業化でも良い関係は続いた。

 会社は違っても技術者として利害を一致させることはできるものだということを幾度かともに経験させてもらった。そのS社が今経営的に良くないし、当時の姿勢が薄れているようで気がかりである。

 直接は存じ上げないが「プレイステーション」で名をはせた別のKさん(久多良木)が実質事業から離れたニュースも、あれこれ取りざたされているが、「余人をもって代えがたい」仕事をした技術者として名前が残る一人である。イノベーション25でも、出る杭を打ったらだめだとイノベーション25戦略会議の座長である黒川清さんがことあるごとに強調している。S社のほうがM社より出る杭を打たない風土であったと感じていた。が今経営の勢いではM社が上である。

S社の復活を切に望んでいる。 


                              篠原 紘一(2007.7.6)

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