12. 評価は難しい?


 日本経済新聞社、日経産業消費研究所が発行している日経先端技術の中に“日本の有力研究グループが注目する世界の重要論文”という企画がある。創刊から20回までに取り上げられた論文(重複して取り上げた場合も含んでいる)の中で、日本からの発信は10%強である。この数字だけで日本のナノテクノロジーを論じるつもりはないが、気になる数字である。どんなことが気になるかというと、

1)     日本では注目される研究が意外に少ないのでは
2)     日本人同士は見方が厳しいのか
3)     海外のほうが研究環境に恵まれていると見ていることから、海外の研究に対して畏敬の念が作用
   しているのか


1)は私の個人的な受け取りであって、人によっては意外ではないという人もいるであろう。(ウォッチャーがどの範囲を対象に評価してるかにも依るなど、いずれにしてもこのデータで深い議論は出来ない)
2)、3)は評価が難しいといってしまえばそれまでのことである。


評価は客観的に決まるものは限られていて、主観的なものが支配してしまうケースの方が多い。スポーツのようなものでも、用意ドンで一番早く走ったかどうかなどは、ドーピング問題のようなことも無いわけではないが、公正で客観的な成果評価だといえるが、シドニーオリンピックでの柔道の技の評価や、芸術点を競う、フィギュアやシンクロナイズドスイミングなどは微妙な差はわからないといってしまったほうがすっきりする。こんな言い方は現場から遠い外野の感覚で、当事者や、関係者はそうはいかない。厄介なことに、知的創造活動の成果評価は客観的な部分は極めて少なく、そこで見方が割れることが日常的に起こることになる。

大学の評価が始まっている。評価結果はネットで公開される。客観性が無いから評価をしないのではなくて、評価で意義のあることは、密室の評価にしないことでそのことは、限られた人の評価が多くの人の目にさらされることで、評価者の見識が一面で問われることになるからである。そのことはより公正な評価への重要な要素になるのだと思っている。

日本の製造業が強い競争力を維持していた時代は、日本人の資質や、平均値の高さが有利に作用し、高く評価された。横並びを良しとした時代が長く続いた。しかしここへ来て、急激に競争力が弱体化し、横並びは一転して悪になった。個人よりもチーム、集団が評価されることになじんでしまっていたから、急に突出せよ、異質を尊重せよといわれても軌道はそうは滑らかに修正できていない。差を差として認識できないではすまなくなってしまった。評価は、そのプロセスにおいて、未だに大半がアナログ的である。5点法で定量的にと約束しても、4の上は5ではなくて、4.2や4.3をつけたりする。この根はアナログ感覚なのである。しかし結果はディジタル的である。イエスかノーかになるのである。

私の勤務した会社で創業者がsecond to the last の取締役を新社長に抜擢するということがあった。そのとき新社長は選んだほうにも責任があるといい、創業者もそのことを認識され、支え続けた。
本領域での採択課題決定のプロセスも評価そのものであり、やはり選んだほうにも、選ばれたほうにも責任が伴っているのはいうまでも無い。
世界から注目される成果が生まれてくるように、事務所として出来ることは何かとの模索を続けている。


                                                篠原 紘一 (2002.9.6)

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