117. 少数精鋭

 広辞苑では「少数精鋭」は「少数のえりすぐった者によって事に当たること。また、その人々。」とある。が、経験的にはむしろ、「ことに当たるに際して少数で当たることで、うまくもっていけば精鋭にできる」と言ったほうが当を得ている気がしている。キャッチコピー風に言えば、「少数だから精鋭になる」と。そしてこの考え方は少子化を憂う今の日本にとって希望を抱かせる考え方になると、期待している。

 精鋭のイメージ

 精鋭のイメージを定量化するのは無理な気がする(たとえば、ある分野で世界の5本の指に入るとしたとしても6番目が精鋭でないとはいえないであろうといった具合である)。

 近い言葉で表わすとしたら、プロフェッショナル、エキスパート、エリートなどがあろう。それらにはそれぞれレベルがあるし、さらに「選び抜かれた精鋭」(英語ではこれを、the cream of the cream というのだそうであるがなぜクリームなのであろうか?)などの修飾された精鋭などを含めると精鋭のイメージも膨らむ一方である。したがって、プロフェッショナルひとつとっても共通のイメージを皆が持つのは容易ではない。プロジェクトXの後継(?)番組として始まった、NHKの「プロフェッショナル、仕事の流儀」に40人のさまざまな分野のプロフェッショナルが登場してきた。すべてを見たわけではないし、番組が伝えようとしているメッセージは番組製作者の意図が当然あるはずであるから普遍的に捕らえていいかはわからない。それでも今まで筆者が見た範囲を大づかみに総括するとすいすい人生を乗り切りプロとして高い評価を得ている人は登場していない(見ていない中にあるとしても極めて少数派であろう)。

確かに才能を上手に開花させ、磨き上げ、実績を残し名声を高めていっているといった、そういった人も結構世の中いるものである。

しかし、誰もが、自分がやりたいと思っていることが世の中で受け入れられ、プロとして活躍できるかといえば、そうはいかない。そこにある大きな要因は自己認識と外部評価との開きを乗り越えられるかどうかの突破力の差だと思う。

アメリカのテレビ番組で、大統領選挙よりも視聴率が高いお化け番組に「アメリカンアイドル」がある。今日本で放送が始まったのはシーズン6で、過去5人のアメリカンアイドルが誕生している。必ずしも10万人近い出場者の頂点に立ったからといって歌手としてメジャーデビューでき、順風満帆とは限らないし、選ばれなくても才能が見出されて活躍しているケースもあると言う(基本は歌手の発掘を目指したオーデイション番組で、第一回目の優勝者、ケリー・クラークソンは翌年全米アルバムチャート一位、200万枚を超える大ヒットを飛ばすという快挙を成し遂げた。歌手に限らず、映画スターへの道を歩み始めた人もいるし、多くのドラマが生まれ続けている)。

 3人の審査員がいて、(筆者は歌手のポーラ・アブドウルしか知らない)二人が合格とすれば、ハリウッドでの選考会に進むことができる(高校野球で地方予選を勝ちあがり、甲子園で頂点を目指すのと似た進め方である)。次々と会場に入り、アカペラで好きな曲を歌う。Noといわれても、今までの中で一番下手だといわれても、音痴だ、素質がないなど罵声を浴びせられても、風邪気味なので水を飲ませてくれ、選曲がまずかったから別の曲を歌わせてくれと食らいつく。その根性、執着は大事である。とはいえ、たった一曲聴いて将来性などわかるはずがない、子供のころからみんなに歌がうまいといわれてきたのになどと審査員に不満をぶちまけ、審査能力、審査方法をののしるシーンが続出する。世の中は評価者と被評家者とから成り立っている。評価者は基本的に自分のことを棚に上げてアドバイスができる人であるから、評価を受ける側は評価者の能力についてとやかく言うのではなくて、できるだけ冷静に助言に耳を傾けることによって成長する社会が好ましいと思っている。そうした努力がつみあがっていって、それぞれが目指す分野で精鋭になっていくのが妥当なのだと思う。

 なぜ少数だから精鋭になるのか

 研究、開発、スポーツなどチームで競争することを想定して考えてみる(ただし、個々に見たら精鋭を9人集めた全日本チームとどこかのプロ野球チームが戦ったとしたときに全日本が勝つとは限らない。ラグビーでは20年ほど前に早稲田大学が勝って以降社会人チームにまるで歯が立たない。など例を挙げだすと、ヒントすら得られないのと境界条件を決めた厳密な議論をできる能力もないので、ここではあくまで感覚的な話にとどめさせてもらう)。

 解決したい課題があって、目標が決められた時にお金と、人をどうするかをまず決める。人数が多いことが組織の力だと思う傾向が管理者には少なくない。しかし、実際仕事のスピードは適正規模(能力の20%か30%くらい超えた目標に敢然と立ち向かってくれる人が分担してやっとこなせるぐらいの設定が適正であろう。人間は集中を持続できないから平均的にならすとそんな感じではなかろうか)からはっきり外れると、過度の負担を担う人や、全力投球しない人が出てきて思うように進まないことが起こってくる。民間企業では全社の大型プロジェクトになると100人を超すプロジェクトメンバーの規模になる。多くの大型プロジェクトでは、プロジェクトメンバーの貢献度のばらつきは大きくなる傾向にある(このケースはここでは考えない)。筆者は民間企業で大型プロジェクトを4回経験した。その中のひとつは少数でスタートしたプロジェクトが規模拡大したプロジェクトであった。その進行過程で、実務担当もマネジメントの立場も経験した。経験的には少数で共通の目標を共有できる規模が好ましいと言える。

なぜそうかと言えば以下の要因があげられる。少数であればメンバー間の相互作用(情報伝達速度は速く、議論の時間は増える)はほうっておいても強くなりアクテイブな人に小さなチームは引っ張られ、メンバーすべてが自信を持ち、自立度も高まっていく状況が生まれやすくなるといった好循環が生まれるからである。プロジェクトが大型化していく過程でも、可能な限り少数精鋭になりやすい規模のグループを構成し、それぞれのグループリーダが集まった単位も小数精鋭といえるチームとなるように運べれば(実際にはそううまく運ぶとは限らずグループに分けると責任回避行動が生まれやすくなるといった問題の解決努力が要る)プロジェクトチームは大型化しても状況変化に柔軟に対応した舵取りは可能になり、競争優位に立つことができる。この考えを延長させてみんなでよくよく考え、それぞれの意識を高めて行動していくことで、大きな社会になっても部分と全体の相似したフラクタルのように好ましい変化を生み出せる少数精鋭の大集合体が構築できないものだろうかと考えている。

 少数精鋭の集まりの日本に

 日本が世界で2番目のGDPを達成したのは奇跡であろう。グローバルの状況が日本人のパワーにあっていた。勤勉で、教育水準は高く、価値観も単色的なことは武器であった。しかも人口は右肩上がりであったから世界相手に成長を遂げ時代を経験できたのである。

 しかし、その時代の手本はいまや世界での競争で神通力を失ってきている。さあステレオタイプより多様化に対応だといっても、文化や風土は短時間で変えようがない。人口構成の変化と世界が求めているものとの突合せにおいて、いたるところでひずみが生じている。

明らかに変化に適合できる集団に持続的発展の機会が与えられる時代に入っている。それが多くの国がイノベーションを重視している理由であろう。

イノベーションと科学技術政策は切り離せない。だが、それだけではイノベーション競争には参加するだけに終わりかねない。もっとも大事なことはあせらず日本社会の体質を変えることである。感謝と誇りを持つことの大事さや、個性を伸ばす応援をすることの大事さを学ぶ場の、社会の最小単位といわれる家庭でもおかしなことが起きている。少数だから精鋭になるという考えはこれからの日本にとってきわめて重要な考え方ではないだろうか。一人一人が、自信を持ち、元気に高い目標に向かっていけるようになれば、少子高齢化社会のモデルができ、日本が諸外国に比して魅力のある社会になっていくはずである。


                              篠原 紘一(2007.2.16)

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