人工細胞システム研究の新展開
エグゼクティブサマリー
21世紀に入り、計測機器の発達による生命情報の蓄積と、生体分子合成技術の進展によって、細胞機能の一部を人工的に再現または模倣する技術が急速に進展した。人工知能に代表される情報処理技術の発展とも相まって、こうした新技術群を組み合わせることで、生命の基本単位である細胞を人工的に合成することを視野に入れた、「人工細胞システム」の構築を目指す研究が隆盛している。本調査報告書は、人工細胞システム研究に関する国内外の動向を踏まえ、国内における強みを把握し、本領域におけるわが国の研究推進の方向性についての示唆をまとめたものである。
合成生物学は、『生命には生体高分子・細胞・組織・個体などさまざまな階層があることを意識し、各階層の中での要素を組み合わせてより上位の階層の機能を構築することを研究手段とする学問』とも定義され、人工細胞システムの研究は、合成生物学の最先端に位置する。合成生物学は、いわば研究アプローチそのものであるため、研究対象となる学問領域としては理学、医学、工学、農学など多岐にわたる。
天然の細胞は、区画化、遺伝情報の複製、代謝、情報処理など、多様な構造や機能が組み合わさって成り立っている。人工細胞システム研究では、究極的には天然の細胞とほぼ同等の機能を持つ人工細胞の構築を目標としつつも、現段階ではその全体をそのまま再現するのではなく、これらのうち個別の構造や機能に注目したシステム、あるいは複数の要素を組み合わせたシステムを構築することにより、すでに種々の成果が得られている。
人工細胞システム研究では、大別して次の3つの成果が期待される。第一に、システムを要素に分解し再構成することで、システムが機能するための必要十分条件を同定し、実際の現象に即した数理モデル構築とシミュレーションが可能になる。第二に、天然システムの再構成だけでなく、天然とは少しだけ異なるシステム群も作り、これらの差異を明確化することで、未解明の生体制御機構の発見につながる。第三に、このような人工システムの構築は「生きた細胞」という制限にとらわれていないため、驚くべき生物化学的な反応を引き出すことが可能になる。これらの人工細胞システムの諸研究は、例えば新規中分子・高分子製剤の開発、体内局所環境に応答できるドラッグデリバリーシステムの構築、バイオものづくりなどにおけるバイオテクノロジーの革新へと展開し得る。その萌芽として、世界のみならず、わが国でもスタートアップの成功例を見ることができる。
多様な生体高分子の組み合わせにより成立する人工細胞システムの構築では試すことができる要素群の種類やそれらの濃度の組み合わせが極めて広い。そこで、AI・機械学習および実験自動化技術がその加速に寄与しつつある。このような複合領域に携わる若手を育成する手段としては、融合的な学部教育、継続的なプロジェクトを通じた人材育成、そして国際学生コンテストが有効である。
わが国では、世界に先駆けて人工細胞システムの構築を志す研究コミュニティが成立している。特にDNAの複製とタンパク質の生産に関わる分野、および、生体分子を用いた情報処理で世界的な強みを持つ。一方、世界各所で人工細胞システム関連の研究が近年盛んになっており、追い上げを受けている。
人工細胞システム研究の推進には、技術開発と並行してバイオセーフティ/バイオセキュリティの確保、および倫理・哲学的観点からの検討が不可欠である。安全性担保を目的とした技術開発の進展とあわせ、これらの取り組みは研究成果の社会受容を形成し、産業的イノベーションの基盤となる。
以上を整理し、人工細胞システム研究を進展させることで、生命とは何か、という根源的な問いへの答えや、従来のバイオ技術が抱える性能上限の課題を克服し、医工学および関連するバイオ産業分野への波及効果を創出することが可能になるといえる。
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