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野依良治の視点

(32)日本人に科学ができるであろうか

2019年1月15日

若い世代には意味不明のこの表題は、20世紀初頭に日本の原子核物理学を開いた長岡半太郎の問いである。近代科学がもともと西洋のキリスト教精神に基づくからであり、彼は大学入学後一年間休学して悩みながらも、決心を新たに勉強し始めたという。幸いにして、先人たちの使命感溢れる刻苦精励の結果、この懸念は杞憂に終わった。

しかし、今日わが国を先導する研究者、行政関係者に再び同じことを問いかけてみたい。時代は移り、科学は社会全体にかかわるため、個人のみならず国家としての能力が問われる。「科学ができる」とは、規模の面では米中に次ぎ、質的にはこの両国と英独仏、さらに機敏かつ特徴ある小国スイス、オランダ、シンガポールなどと拮抗する水準であることを指す。確信があればいい。では、なぜ20年前に米国、欧州とともに三極の一翼を担っていたわが国の学術研究がかくも低迷し、IMD世界競争力も1位から26位程度まで低落したのか。産業界も自らの研究開発力に自信を持てない。わが国は急速に存在感を失い、世界から孤立しつつあるのではないか。

学術研究の低迷の主要因

近年の科学論文指標の低迷の原因は明白で、要は「制度危機」である。具体的には(1)研究投資額の不足と配分の偏り、(2)創造的エネルギーを発揮すべき若手の独立教員の不足、(3)若手科学者の研究環境の不備、(4)大学院生の経済支援の欠如、(5)国際協調、頭脳循環の不調、である。国際的に「異形」の制度は破綻寸前であり、基本的な構造と機能を世界標準に整合修正することなく、再生はあり得ない。

端的に、研究の量的、質的生産性は、[研究開発投資額]×[研究人材投入量]×[全要素生産性(イノベーション効果)]で決まる。高等教育と科学技術予算が不足のままで、着実に投資拡大を行う他国と戦えないことは当然である。2000〜2016年の間の伸びはわずか1.1倍、他方、米1.9倍、独1.8倍、仏1.6倍であり、中国では実に17.5倍に達する。かつ配分は将来の科学的潜在性よりも、現時点で「分かり易い」研究に偏る。研究人材の頭数は多くとも、あまりに均質で多様性に欠ける。もちろん創造的な成果を生産する研究者も少なくないので、生産性の低迷の最大原因はイノベーション効果の欠如、つまり硬直化した制度にある。

若者の独立性の拡大を

自然科学における創造の源泉は、間違いなく若者の闊達な活動にある。「日本学術振興会賞」は、毎年20数名の45歳未満の創造的成果を上げた研究者を表彰するが、常に候補者の独立性を厳しく問いながら選考審査してきた。

学問の自由は日本国憲法23条で保障されており、大学教員の独立性は学校教育法(2007年改正時)で定められている。大学教員における39歳以下の占める割合はわずか24.6%でドイツ、中国のおよそ半数に過ぎない。そして、この年齢層の多くは、准教授ないし助教であるが、法的位置付けとは裏腹に彼らには十分な独立性が保障されていない。すなわち、法と現実とは大きな乖離がある。徒弟制組織の継続が人的新陳代謝を妨げる結果、新興の人工知能やIoTなどの分野の開拓力を損じ、独立した若者が力を振るう中国などの席巻を許している。

ProfessorshipとDirectorship

国立大学における問題点は、かつて法に基づき「講座制」を敷いてきたため、いまだにprofessorshipとdirectorshipを混同していることである。両者の役割は明確に異なる。諸外国では、ほとんどすべての大学教員はfull, associate, assistant professorなどの職階や年齢を問わず、それぞれに独立して自由な発想、探究心に基づく学術研究を行っている。異分野連携など他者と共同研究することはぜひ必要であるが、あくまで当事者同士の対等な自主性に基づく。合わせて、時代が求める学生の教育に自律的責任をもつ。なお、大学における学術研究は基礎的であれ、応用開発であれ、不確実性をともなう未知への挑戦を保障するが、中立公正性と成果公開性が必要条件となる。

一方、国立研究開発法人は国家戦略に沿った科学技術振興を担う。国家と法人の間の契約に基づき、基礎、応用開発また長期、短期の違いにかかわらず、「最大限の成果を確保」を目指す目標管理型の研究が主流になる。企業では当然、経営責任者の判断で、経済的利益につながるプロジェクト研究が行われる。ともに法人として「目標必達」であり、成果は時に非公開、独占が図られる。一定数の研究者、技術者を擁する事業組織を統括する優れた指揮者(director)が求められ、教授(professor)は不要である。

職業選択にあたってprofessorとして知的自由を享受するか、directorとして重要な事業統括責任を全うするかは個人的な志向によるが、さらに当人の資質や経験も関わる。もとより両者に対する業績評価の観点は当然異なる。わが国では特異な講座制ゆえのdirector的な教授を多く見かけるが、今いちど原点に立ち返り学術の本質とprofessorshipの意義を再確認すべきであろう。昨今の産業競争力強化政策に呼応した環境整備なき産学連携活動が、混乱に拍車をかける。大学は資金不足を理由に、学術の府としての自己決定権を放棄してはならない。

大学院生こそが科学研究を支える

実験研究の中核である大学院生の処遇改善は喫緊の課題である。憲法26条の国民が教育を受ける権利、社会が教育を支える義務、そして27条の勤労の権利の精神を尊重しなければならない。給付制奨学金、教員の研究支援、教育補助に対する対価支払い制度を完備すべきだ。2015年時点の統計によると、博士課程で受給なしが52.2%、受給額年間60万円未満が24.9%とのことである。社会のための科学研究に献身する彼らに、いかに生計を立てろというのか。

この世界でも例がない基本的人権軽視の状況では、科学立国を担う最優秀な人材が集まるはずがない。日本では人口100万人当たりの自然科学系博士がわずか92人と、米英独の3割から6割程度に過ぎない。また、人文学、社会科学ではさらに低いのはなぜだろうか。

世界の若者が日本を選ぶには

独創性とともに共創性が重視される時代に入った。そこには断片的な専門知識ではなく、多様な文化背景を包括する広範かつ機動的な共同活動を主導する本物の知力が求められる。そして世界は博士号取得者を増やすため、若者の争奪戦の状況にある。わが国は若者の海外修行を格段に進めながらも、海外から優秀な独立研究者、博士研究員、学生を招く必要がある。

頭脳循環の加速には、投資拡大とともに岩盤慣習の排除が先決だ。世界標準の学位授与、公正な人事評価を含む透明性ある環境を整備する必要がある。日本の大学、研究機関、企業は世界から「選ばれる魅力」を備えているか。一体いつになったら、日本で学び活躍した外国籍研究者がノーベル科学賞を受賞する日が来るであろうか。

それで本当に大丈夫だろうか

世界の人、金、もの、情報が瞬時につながる時代である。わが国の科学技術が存続するためには、まず旧態依然の体制から脱却し、世界共通の制度に転換する。しかし、内容の伴わない形式的な模倣であってならない。この「英語の世紀」「デジタル時代」に英語能力の向上、プログラミング教育も大切であろう。そして世界に通じる人材の十分な育成、確保に努力する。しかし、これらは当然の道筋に過ぎず、必要条件であっても、十分条件とは言えない。世界の科学一流国たるには、さらなる知恵を編みださなければならないのではないか。

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