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野依良治の視点

(31)分野連携と分野融合は可能だろうか

2018年12月13日

なぜ人は学ぶのか

ソクラテス哲学の「無知の知」こそが知的活動の原点である。「新たな知」はさらに「未知の世界」を拡張し、この科学的発見の累積が、森羅万象を神話でなく、現実のものとしてきた。

アリストテレスは「知を愛すること」が人間の本性と考えた。自然科学の対象は無限で、これを学ぶことは真っ当な自然観、人生観、死生観を育み、大いなる文化的価値を生むと思っている。当然この知識をもとに生まれる様々な優れた科学技術は、人々の豊かな人生、国の存立と繁栄、そして人類文明の持続に貢献する。

サイエンス(理科、科学)はリベラルアーツ(教養)とともに個々の人びとに80年、いや今や100年生きる力を与える。さらに、健全な社会の形成と存続のためには、自然科学や工学の知見を、形而上的な人文学、社会科学による洞察と統合することが是非とも必要であろう。

科学は一つである

科学は進展する。先に、近年の科学の諸分野の動向、関連性にかかわるサイエンスマップ(コラム28)を示した。「科学プラネット」の広い海の上に大きな大陸、半島があり、大小の島々が浮かぶが、海底では全てが繋がっている。もとより「科学は一つ」であり、自然界の普遍的原理に基づく営みに境界はない。古く理論物理学者シュレーディンガーが「生命とは何か(What is Life?)」において科学分野の統合の必要性を説いたが、人為的な物理学、化学、生物学などの「科学の分断」には、本来的合理性が認められない。ましてや、筆者が学んだ化学において、明らかに統一的原理が働く有機化学、無機化学、物理化学、高分子化学などの細分化した自己完結型の活動に、正当性ある説明は全く不可能である。

今後の科学と技術分野の進展には、個人の独創性の発揮とともに、統合的な仕組みによる共創の促進が不可欠である。残念ながら、科学分野の細分化の歯止めはきかず、生産論文数こそ増え続けるものの領域の複合は遅々としてはかどらない。

科学分野の連携、融合の行方

現代の文明環境は、オープンサイエンスによる分野連携、分野融合を強く促し、方向は不可逆的である。もはや分野連携(inter-disciplinary, trans-disciplinary)というよりは、学境の撤廃、反分野的(anti-disciplinary)な破壊活動を起こし、あるべき科学の進展を目指すべきであろう。さもなければ、やがて学術界が自律性を失い、産業経済はじめ社会的要請を背にした外部圧力の介入を招くことを恐れている。

目覚ましい進歩を遂げる最先端の観測・計測技術に加えて、かつて経験したことのない情報技術革命が統合化の流れを加速する。既存の方法論に加えて、ビッグデータ支配型活動の参入は科学界においても不可避であり、世界中で日々生産される膨大なデータを品質保証の上、集積、一元管理して共通活用すべきである(コラム26)。また人工知能(AI)も確実に進歩し、デジタル化した統計値データベース解析から、潜在化したさまざまな事象が抽出される。将来、もし演繹法と帰納法の統合による信頼できるデジタル駆動型研究のアルゴリズムが実現するならば、現在の科学分野の境界は一挙に消滅する。

学協会の先見性ある指導に期待したい

科学の本質、そして時代の要請に目を背けて、あえて境界を設定し頑なに守り続けるのは、大学、学協会、そして職業的研究者たち自身である。わが国においては綿々と続く大学の研究教育体制のもたらす必然的結果でもある。さらに諸々の行政制度も管理効率化のためか、この職業ギルド制度の維持に加担する。伝統的な価値観の克服は容易ではないが、もはや狭量な「学境防備」ではなく、積極的に新たな秩序形成に取り組みたい。

数多ある学協会は自らの将来をどう考えるのか。壮年現役指導者には、後継世代を犠牲にすることなく、あるべき展望を開いてほしい。わが国を代表する識者が集う日本学術会議は、かつての7部制から「人文・社会科学」「生命科学」「理学・工学」の3部制に統合され、機関誌「学術の動向」を刊行するが、いったい学問の行方をいかに導きたいのか。学問には「思い入れ」が不可欠であるが、長年にわたる分野間の得失が介在する非合理的、教条的な「思い込み」の呪縛からは脱却しなければならない。

文理融合は難しい

自然科学分野における知の統合とともに、「文理連携」「文理融合」の可能性を問う声が大きい。しかし、後者の「融合」は難しい。自然界の統一原理に立脚し、基本的に国際単位系(SI)言語で記述される理工学(自然科学、工学)に対して、人文学はそもそも宗教、言語、慣習、工芸など多様な文化に根ざし、社会科学もまた背景が一様ではない政治、経済などの仕組みに基づく。研究対象、価値観、よって立つ原理は異なり、共通言語を欠く。計算機社会学、社会物理学などの試みもはじまったが、便宜的な数値化ではなく、客観的正統性をもつ数理学的単位の整合がなければ、真の融合は容易ではない。「ユニバース」ではなく隣接する「マルチバース」の存在を認めて、互いに動的な連携を図るのが現実的ではないか。

科学者の計量的方法論に理解を示す小林秀雄もこう主張する。「精神的なあるいは人間的な対象は、その本性上、決して数学(数理)的語法を強要するような性質のものではない。数学的言語による説明を、科学の理想とする考えが捨てられないならば、採る道は一つしかない。対象の方を、理想に準じて作為的に変える道だ。人間的対象が、先ず多かれ少なかれ不手際に非人間化され、物質化されなければ、決して仕事は始まりはしない」と警鐘を鳴らす(「考えるヒント」、1974年)。数理的取り扱いによる非生産的統合の強制は、厳に戒めるべきであろう。

知の統合は現代社会の要請である

西洋における文理乖離の問題の存在はC.P.スノーが1959年の「The Two Cultures」において火をつけたようであるが、我々の耳に届いたのは後の翻訳「二つの文化と科学革命」(みすず書房)の上梓による。意思疎通できない二つの文化の存在は危険であるとさえいう。以来半世紀にわたり「教養主義」の衰退もあり、また両者の棲み分けがさらに進み、加えて我々世代が総じて(狭い専門分野の)研究の重視、(統合的な)教育の軽視の傾向にあったがために、事態は好転せずむしろ悪化している。その代償は大きく残念である。

理科であれ文科であれ、ともに同じ人間の知の営み、学術である。「文理融合」は難しくとも「連携」は有意義である。互いに立場の違いを超えて対話し、理解を深め合い、今後は国家目標Society 5.0の実現に向けたイノベーション創出に努めなければならない。政治、経済、教育、医療、食料、交通などの文明を支える強靭な社会基盤の形成と維持、発展は、理工学コミュニティである「科学プラネット」と「人文・社会科学プラネット」の日常的な協働による科学技術イノベーション無くして有り得ない。この「イノベーション」は客観知である科学自体とは異なり、主観に満ちた社会的価値観と呼応するパラダイムであり、時代を強く反映する。「社会総がかり」の知恵の結集が求められる所以である。

加えて、人類の生存を保障する絶対的な地球環境条件(planetary boundaries)も厳然と存在する。近年は、巨大な自然災害のみならず、資源乱費、大気海洋汚染、温室効果ガス排出などの過剰な人為的活動により、生存環境が非線形かつ不可逆的に変化し、喪失の危機にさえ曝されている。仕組みを異にする、しかし強く関連する社会的環境と全地球的自然環境が規定する脆弱な生活空間の中で、人類は果たして包括的、持続的発展を堅持できるのであろうか。「世代間の公平性」の維持に最大限の留意が必要である。

国境を越えて中立、公正な総合学術こそが、この未曾有かつ不確実な問題の克服に向けて指針を示し、後継世代に実践を委ねることになるのではないか。わが国において、大学は明晰かつ勇気ある科学者、技術者、社会学者を育成するとともに、彼らが人びとの生きる道に示唆を与える哲学者、倫理学者、文学者たちと交わる場を提供すべきである。

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