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野依良治の視点

(29)規格化する現代科学研究

2018年10月26日

科学には進歩が宿命づけられており、それを担うのは若者たちである。だから国にはそれに応じた制度設定が求められる。大学教育の改革も必然だが、文部科学省の科学振興へのたゆまぬ熱意、青少年育成に向けたスーパーサイエンスハイスクールや科学オリンピック大会支援の取り組みに感謝する。一方で、その目的は何か。その方向はともすれば、明治から続く殖産興業、さらに熾烈を極める科学技術開発競争を担う有為な職業的人材の養成に偏ってはいないだろうか。それだけでは困る。若人には価値観の固定化を避け、自らの多様な知性と感性を涵養する余裕が必要である。

筆者は、研究人生の大半を大学で過ごし、のちに独立行政法人(国立研究開発法人)理化学研究所に11年以上も勤め、また学術・科学技術行政や民間企業経営にもかかわってきた。振り返ってみて、イノベーションを目指す実学は当然大事だが、虚学もまた大切で、さらに高度かつ峻厳な職業能力の訓練とともに健全なアマチュアリズムも多様な若者の育成に大いに意味あるものと思っている。科学の意義は人類社会にとってより普遍的であるからである。

近年の科学教育は真っ当だろうか

識者たちがせっかく工夫をこらした教育制度、職業制度が心ならずも若者に生来備わる柔軟な知性、感性を十分生かしきれないならば、誠にもったいないことである。理科教育もまず自由闊達な好奇心を育むべきだが、わが国高校生の勉強と生活に関する意識調査によると、試験の前にまとめて勉強する傾向が強い。自ら考える意欲や勉強したものを実際に応用してみる、他の方法でも試してみる比率が米国、中国に比べて圧倒的に低いのは、いったい何故だろうか。理科が入学者選抜の単なる道具になってはいないか。本質を無視した人為的な規定が、試験問題、解答ともに、用いる知識を一定の整理された定型的なものだけに制限しているが、未知は教科書外にある。大事な入試だから断片知識記述も仕方がない、ではすまされない。受験しなければ、見向きもされない科目でいいわけがない。試験点数稼ぎの要領化が本来の考える楽しさを削ぐならば「理科離れ」は当然の帰結であり、将来科学に夢を託せるはずがない。

日本人独特の好奇心から「身辺の科学」を愛した寺田寅彦、「雪は天から送られた手紙である」の言葉を残した中谷宇吉郎たちに、理科のあり方を相談してはどうだろう。手間がかかる体験教育は、学校以外の家庭や地域で余裕をもってとのことならば、全国各地に青少年、一般人に魅力ある話し合いの場の提供、博物館、科学技術館、産業技術館などの格段の充実を図る必要がある。

理科はオープンエンドであることを特徴とする。不思議なことはあまりに多く、知らないことは全く恥ずかしいことでない。想像力を膨らませて「いったい何故なのか」自問自答してこそ地頭が育つ。一緒に喜んで考える好奇心旺盛な先生の発掘、登用が必要だろう。思いがけない発見、個性ある創意工夫には青少年の自主性を重んじるモンテッソーリ型の教育がもっと尊重されて良さそうであるが、日本社会は横並び、学校でも出る杭は打たれ、異端や前衛は排除されやすい。

大学のカリキュラムも改善は見られるが、基本的に筆者の現役時代と変わらず、相変わらずの座学と実験教育では創造力は育たない。科学分野と世相の変化、情報技術の進歩についていけない。若者たちが担う時代の行方は誰にも予測がつかないが兆しは感じられるはずだ。教育行政や我々世代がつくった既成のパラダイムに洗脳されることなく、ぜひ自らを信じて自由かつ大胆に未踏に挑んでほしい。

研究費は構造改革を促進しているか

公的資金制度が科学研究振興に大きく寄与してきたことは間違いなく、今後も着実な拡張が望まれる。特に自由を尊ぶ学術研究に対する資金は「費用」ではなく「投資」である。あらかじめ必達目標を掲げて進める科学技術研究開発とは異なり、学術研究は直近の研究成果の成否にとらわれることなく、むしろ未知への挑戦を促し、分野領域の新陳代謝に資するべきである。勇気ある失敗に大いなる名誉を与えたい。研究費は高活性かつ持続的な「触媒」であるべきであるが、現実には配分のあり方が自律性を損なう「負触媒」として働く側面もあるのではないだろうか。

学術研究は個人の内発的な発想を最大限尊ぶので、事前計画の評価にも、上記の観点から柔軟果敢かつ責任ある判断が求められる。自然科学研究は不確実性に満ちるため、容易に結果が予測される計画にはほとんど意味がない。しかし、実際の採否判断が同調的多数決主義で、あまりに安全性第一、批判回避に傾きがちである。手慣れた合議制の審査結果には新鮮さが全く感じられない。事後評価も標準規格品的な論文発表をもってよしとする。問題は申請者たちのこの価値観に合わせた大胆さの欠如、自主規制の風潮の蔓延であり、これでは「代謝」の目的は期待できない。若い世代こそが未来を感知し、萌芽をつくる。大きな驚きでなくとも思い切った発想の転換、面白さを追求する研究環境を与えなければならない。

結果として、広く受容されてきた競争的研究資金制度が、新領域開拓への革新ではなく、むしろ旧体制の既得権維持、延命に働いてはいないか。この閉塞感の先にある格差の広がりと固定が学術の発展を阻むことは明らかである。

もともと研究者の創意を育むべき科学社会、特に大学組織の運営において保守的な前例主義が蔓延するのは、わが国に限らず世界的傾向である。かつてスタンフォード大学のジョン・ヘネシー元学長が、研究社会の求めに応じて連邦政府が大量に投入する研究資金が実は学長の自己決定権、指導力を奪い、むしろ大学の自主的改革を損なっていると苦情を述べたことを思い出す。

「尊敬される科学」と「感謝される科学」

研究者たちは科学界だけでなく、もう少し一般社会の声も聞こうではないか。自由種目よりも学校の規定種目が得意で、受験競争の勝者でもある大学や公的機関の職業研究者たちが、アマチュアの感性、一般人が素朴にぶつける疑問にどのくらい対応できるだろうか。昨今は専門的学問の深化とともに、明らかに「象牙の塔」を脱する広範囲、多様な活動による波及効果(broad impact)が求められている。もとより学術では課題選定は自らの意思に委ねられるが、あえて拒否する理由はない。

「尊敬される研究者」は素晴らしいが、「感謝される研究者」もまた大切である。学界には、旧来の教条的なしきたりを踏襲するあまり、専門家だけが理解でき生活感のうすい科学ほど高尚とする風潮がある。結果として生活感豊かな研究を阻んでいる。文科省が振興する「ライフサイエンス」分野に、あえて珍しいカタカナの政策用語を用いるのはなぜか。それは狭義の「生命科学」だけでなく「生活科学」を含むからであり、この視点には感心した。生命の精緻な仕組みの探求だけでなく、人びとの生活に直結した「より良く生きる」、「より良く食べる」、「より良く暮らす」ための科学課題への貢献を期待している。もとより生活科学は複合的で、化学、材料、物理現象、そして感性までも含まれる。順序立てた説明なくして理解不能な深遠な課題ではなく、より直接的な日常の衣食住の質向上へのかかわりが、一般社会の科学への親しみを育み、多様な国民参加を促すことになる。

一方で、メディアに氾濫する食品や健康医療などに関わる不適切きわまる誇大宣伝、商品広告内容の真偽には、より厳しい科学の目を向けるべきではないか。「表現の自由」を盾に証拠不十分の疑似科学を撒き散らし、場合によっては社会に深刻な影響をもたらしている。研究論文審査の厳密さとの乖離はいかばかりか。科学社会の名誉を損なうものであり、これらに対する沈黙、無批判は、ライフサイエンス界の責任放棄である。

救いはイグ・ノーベル賞

皆が納得する目標を掲げ、多大な公的資金を得、その代わり厳しく評価を受けながら研究する「正規軍」だけが、科学を進めるわけではない。科学界で権勢を振るう有名科学誌ではなく「風変わりな研究の年報」の編集長が1991年に創設した「イグ(不名誉な)・ノーベル賞」があり、全10部門への授賞課題には、笑い、皮肉、風刺が溢れ、科学の面白さ、研究のあり方や影響について深く考えさせる。

対象はノーベル賞と同じく「役に立つ研究」、「役に立たない研究」とともに、水爆開発や仏大統領による太平洋上の核実験など世界をおとしめたものさえ加わる。一見パロディーではあるが、授賞者、受賞者双方の発想に有力科学賞に比べて圧倒的な独自性があり、新規な業績の科学的根拠も確かである。多くの課題の研究資金は自前であろう。賞金はなく、授賞式出席にかかる費用も自己負担、その心意気には感心させられる。「バナナの皮を踏むとなぜ滑る」、「股のぞきで見る風景」など日本は、英国とともにこの賞の常連である。今年も昭和伊南総合病院の堀内朗医師による、苦痛の少ない「座ったままの大腸の内視鏡検査」が受賞した。2007年から12年連続で受賞しており、未だ反骨精神健在と、一応安堵している。大学の学術研究にも、この感覚がもう少し必要ではないか。

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