事業成果

高真空中でも気体・液体の放出を防ぐ!

ナノスーツで生きたまま観察2016年度更新

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針山 孝彦(浜松医科大学 医学部 教授)
CREST
ナノ科学を基盤とした革新的製造技術の創成
「階層的に構造化されたバイオミメティック・ナノ表面創製技術の開発」共同研究者(H20-26)

「変形した死んだ生物」の観察から「リアルな生きた生物」の観察へ

生物表面の微細構造を電子顕微鏡で観察するには、電子線が透過しやすいよう、試料を顕微鏡内の高真空チャンバーに配置する必要がある。すると、体重の80%近くを水が占める生物はどうなるか。生物の体表は多様な環境に対応するため細胞外物質(ECS:細胞内から外側に分泌されて集積した物質)で覆われてはいるが、高真空下のような極限状態ではECSは気体や水分の放出を抑制できなくなる。当然ながら、脱水による体積収縮で表面の構造は大きく変形し、生物は死に至るのである。そのため、できるだけ生きた状態に近い微細構造を観察できるよう、化学固定した上で乾燥処理や表面金属コーティング処理を施して、「死んでいる生物」を電子顕微鏡で観察しているのが現状だ。

ところが2013年4月、「生きたままの生物」の電子顕微鏡観察が可能になった。2008年CRESTに採択された研究代表者下村政嗣千歳科学技術大学教授の共同研究者である針山孝彦教授らのグループは、ECSやそれを模倣した薄い液膜に電子線またはプラズマを照射することで、高真空中でも気体・液体の放出を防ぎ生命を保護する、「ナノスーツ(ナノ重合膜)」を開発したのである。

電子線・プラズマ照射で薄膜が形成される

研究チームはまず、高分解能走査型電子顕微鏡(FE-SEM)を用いてさまざまな生物を観察し、ほとんどが死に至り、表面構造も大きく変形することを確かめた。ところが、個体の最外層に粘性の高いECSを持つ一部の生物(ショウジョウバエの幼虫など)は、収縮も微細構造の変形もせず、顕微鏡中で活発に動いていた(幼虫A→C)。一方、電子線照射なしで1時間放置した後に観察した幼虫は、脱水されペシャンコになって死亡していた(幼虫E→G)。

そこで幼虫Cの最外層の超薄切断面を透過型電子顕微鏡で観察したところ、50~100nm(ナノメートル。1nmは10億分の1m)の薄膜が形成されていた(D)。これに対し、幼虫Gには薄膜は観察されなかった(H)。この結果、電子線照射により幼虫の最外層に薄膜が形成され、それが気体・液体の放出を抑制していることがわかった。これと同じ結果は、プラズマ照射によっても得られた。こうして、「幼虫の最外層にあるECSは、電子線またはプラズマ照射により、体内物質の放出を抑制できる50~100nmの薄膜を形成し、高真空下でのFE-SEM観察を実現する」ことが分かった。チームはこの薄膜を「ナノスーツ」(ナノスケールの重合膜)と名づけた。

図:ショウジョウバエの幼虫を電子顕微鏡内に直接入れて観察

ショウジョウバエの幼虫を電子顕微鏡内に直接入れて観察

界面活性剤にプラズマ照射でナノスーツ開発

次の段階は「ナノスーツ」の開発である。研究チームは、幼虫のECSの成分分析を行って、類似した化学官能基を持つ溶剤を選定し、ECSを持たない生物に対して同等の機能発現を試みた。選択したのは、食品添加物にも指定されている界面活性剤「Tween20」。これを、蚊の幼虫(通常のFE-SEM観察では、数分のうちにペチャンコになって死亡する。幼虫A)にごく薄く塗りつけ、プラズマを数分間照射する。このようにしてナノスーツを装着した試料をFE-SEM観察したところ、高真空下でもいっさい形態変化することなく活発に活動した(幼虫B)。観察後の幼虫(ボウフラ)は、ショウジョウバエ幼虫のECSと同様に、最外層に50~100nmの薄膜が形成されていた。Tween20によって作製したナノスーツは十分に機能し、生きた状態の微細構造を観察できることが判明した。「ナノスーツ」法開発であり、その後Tween20以外の界面活性剤でも本法が実施可能であることも示した。

こうして開発したナノスーツを種々の生物に適用したところ、電子顕微鏡に入れることのできたほとんどのサイズの動物種で、生命を維持し活動性を持続する結果を得た。

画像:ナノスーツで覆われた生物は形態変化を起こすことなく動く様子が観察でき、Cのように、30分後でも活発に運動を続ける。

ナノスーツで覆われた生物は形態変化を起こすことなく動く様子が観察でき、Cのように、30分後でも活発に運動を続ける。

微細な「生物模倣技術」から広大な「生命科学」まで

今回、針山教授らの研究グループによって開発された「ナノスーツ法」により、「生物試料の微細構造を生きた状態で観察できる」ようになったことで恩恵を受ける研究分野は数多いが、「ものづくり」の分野、なかでも「生物模倣技術(バイオミメティックス)」などは、その筆頭かもしれない。これは、多様な環境で生存していくために生物が発達させてきた機能や仕組みを学び、模倣することで、新しい材料やシステムを開発していこうという技術分野。その1つとして、まさに生物の微細構造を模倣した材料開発が、いま盛んに研究されている。よく知られているのは、ハスの葉の超撥水性、蝶の羽の構造色、さめ肌の低摩擦性などだろう。

一方、ナノスーツ法は、小動物や細胞などの極微細領域での動きを直接観察することも可能とする。そこから、生物にかかわる未知の現象や行動、あるいは組織や細胞間相互作用などの解明もまた期待される。それは大きく言えば、生物学・農学・医学などを包含する広大な「生命科学」の発展への貢献ということでもある。

画像:ハムシにナノスーツ法を適用し、前脚の微細構造を撮影した高真空/高解像度写真。

ハムシにナノスーツ法を適用し、前脚の微細構造を撮影した高真空/高解像度写真。