研究主題「量子もつれ」の構想


 量子力学における測定理論は、量子物理学全般において最も中心的な問題である。しかし、ごく最近に至るまでの物理学における実験は、この理論の難解で神秘的な側面にふれることなく解釈することが可能であった。光子と原子と素粒子の間の相互作用、レーザの量子論、超流動、超伝導、半導体などの性質は、確かにその基本的な部分において量子力学的現象であるけれども、これらの現象を理解するために不可思議な“測定による波束の収縮”や“非局在量子相関”といった概念を導入する必要はなかった。
 測定の量子論が必要とされなかったのは、1980年代までの実験技術では単一の物理系を外乱から遮へいし、これに対し連続して非破壊の測定を行うことができなかったためである。従って、1回目の測定により系の状態がどう変化したかを2回目の測定で観測することができず、波束の収縮や非局在量子相関は数学的な概念としては存在しても実験により実証することは不可能であった。
 1990年代に入り、実験物理学はようやく量子力学の最も本質的な概念に迫り始めた。今では、単一原子、単一電子、単一光子の状態を操作し、これを非破壊で測定することができるばかりでなく、複数の粒子に量子相関を持たせることも可能になりつつある。これらの最先端の実験では、量子測定の不可思議な概念なしに実験結果を理解することはできない。これは、これまでの実験結果が波動関数の確率解釈という量子論の極めて表面的な部分のみで説明がついたのと際立った対照を見せている。このような新しい実験物理学の波は、まず量子光学という分野で始まり、次いで原子物理学へ広がった。今日では、固体物理学やマイクロスコピーの分野にもこの潮流が浸透しつつある。
 一方、この量子相関を持った複数の粒子(光子や電子)を情報伝送と処理に応用し、古典的な通信とコンピュータの限界を克服しようとする研究も近年盛んになりつつある。
 本共同研究では、このような潮流の中心的概念「量子もつれ」を量子光学、原子物理、メゾスコピック(固体)物理の実験技術を駆使して検証するとともに、これを利用した将来の量子情報技術(量子コンピュータ、量子暗号など)の中核となる技術の確立を目指す。このため、次の3つの研究テーマへアプローチする。その第1は、原子スケールの系での強相関輸送現象(entangled transport:日本側)と強相関発光現象(entangled radiation:フランス側)の研究である。第2は、強結合した共振器とエキシトン(polariton:日本側)と共振器と2準位原子(dressed atom:フランス側)の非線形量子統計性の研究である。第3は、様々な量子エンタングル状態を光子(日本側)と原子(フランス側)に対して実現し、その特性を評価し、応用を探索する研究である。

 本共同研究では、具体的に次の事項について研究を進める。

1.単一もしくは少数の原子より構成される原子鎖、原子接合を作製し、その電流輸送現象に及ぼすクーロン相互作用、量子干渉の効果を解明する。また、メゾスコピック系で既に実現されている電子とホールに対するクーロンブロケード効果と電子の量子干渉をこの原子鎖、原子接合に導入し、原子スケールの単一光子/単一電子デバイスの実現を目指す。

2.共振器に閉じ込められたフォトンと量子井戸に閉じ込められたエキシトンが強結合して作るポラリトン(dressed boson)の量子統計性(ボーズ凝縮や誘導放出現象)を解明する。メゾスコピック・トンネル接合への電流注入により、コヒーレントな物質波(エキシトン)を発生する誘導共鳴トンネリングの実現を目指す。また、共振器に閉じ込められたフォトンと強結合した2準位原子(dressed fermion)の非線形性(真空ラビ振動や量子相関の形成)を解明する。こうした研究を単一量子ドットや単一原子で発振するマイクロレーザの実現へ発展させる。

3.複数の光子もしくは原子の間に量子相関を持たせた量子エンタングル状態(EPR状態、GHZ状態)や他の非古典状態(シュレジンガー猫状態、単一光子状態)を発生し、これを量子力学の検証や量子情報技術(量子暗号、量子誤り訂正符号、量子コンピューティング)へ応用する。

 この研究は、量子力学の中心的課題を広く深く理解することを通して、21世紀へ向けた科学と技術のより一層の発展の基盤作りを行おうとするものである。NTT/スタンフォード大学のグループは量子光学と固体物理学の境界領域に特色があり、ENSのグループは量子光学と原子物理学の境界領域において優れた実験技術と理論を有している。一方は、複雑、多彩、実用的な系を得意とし、他方は単純、クリーン、教育的な系をフランチャイズにしている。これら2つの相補的なリソースを有するグループを組み合わせることにより、ユニークで効率的な国際共同研究が展開できるものと期待される。


This page updated on December 3, 1998

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