科学技術振興事業団報 第342号
平成15年8月5日
埼玉県川口市本町4-1-8
科学技術振興事業団
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スピントロニクスの新原理

-量子コンピューターの実現可能性を高める方法の理論予測-

 科学技術振興事業団(埼玉県川口市、理事長:沖村憲樹)は、新しい量子情報処理技術として期待される「スピントロニクス」に結晶中の電子の状態を制御する新原理を持ち込むことで、従来室温下においては困難であった電子の自転(スピン)を利用した量子情報処理の実現可能性を高める方法を明らかにすることに成功した。この研究成果は、東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻の村上修一助手、永長直人教授、およびスタンフォード大学のShoucheng Zhang教授によって得られたもので、米国科学誌「サイエンス」にて、印刷版での掲載に先立ち8月7日付けで同誌のホームページ上に公開される。
 半導体中の電子は負電荷を持ち、それが運動すると電流を発生する。この電流を制御することが今日の半導体テクノロジーの基礎である。一方、電子はそれ自身の自転運動を行っており、その回転の方向は時計周り、反時計周りの2つの状態の可能性がある。これはスピンと呼ばれ、ちょうど計算機の2進数(ビット)「0」、「1」に対応させることができる。そこでこのスピンを記憶や演算に用いようとする新しい科学技術―スピントロニクス―が近年大きな注目を集めている。さらに、スピンの状態は量子力学(*1 参照)に従うため、ただのビットではなくて「q-ビット(*2 参照)」と呼ばれ、量子コンピューターの情報処理回路の基本素子として使うことが検討されている。これまでq-ビットとして機能するスピン偏極した電子を半導体に導入することが検討されてきたが、室温でq-ビットを作動する有効な方法は存在していない。
 本研究では、このスピントロニクスに、「新たに電子の量子力学的状態を制御する手法(ベリー位相(*3 参照)エンジニアリング)」という新原理を世界に先駆けて導入し、「通常の半導体(p型ゲルマニウムやガリウム砒素)において、電場を加えるだけで室温でも熱の発生を伴わないスピン流が発生すること」を理論的に示した。この「スピントロニクスの新原理」は、半導体中の電子のスピン制御に重要な指針を与え、低エネルギー消費の量子コンピューターの実現を加速するものと期待される。なおこの研究は、科学技術振興事業団 戦略的創造研究推進事業の研究テーマ「相関電子コヒーレンス制御」の一環として行われたものである。

<序文>

 新しいスピントロニクスは、電子の持つ自転の自由度―スピン―を利用することで、記憶、演算を高速・低エネルギー消費で行おうとするもので、近年大きな注目を集めている。特に量子力学の原理に基づく、量子情報処理の実現に向けた技術としても有望視されている。

 電子のスピンとは、その自転運動の自由度のことで時計周りか反時計周りかの2つの状態を取ることが可能であり、これを2進数の「0」と「1」に対応させれば計算機の演算素子として利用できる。さらにスピンは「0」と「1」が混じりあった量子力学的状態をとることから通常の「ビット」ではなく量子コンピューターに必要な「q-ビット」としての利用が期待されている。このスピンを用いた新しいエレクトロニクス―スピントロニクスを半導体で実現するためにはまずスピンが偏極した電子を注入することが必要である。そのために、金属磁石との接合を作るとか、半導体に磁性不純物を導入して半導体磁石を作るなどの成果が得られてきたが、室温で作動する有効な方法がまだ存在していないという問題があった。

 本研究では、このスピントロニクスに「ベリー位相エンジニアリング」―つまり結晶中電子の量子力学的波動関数(波動関数:*1参照)の形を利用したエンジニアリング―の新原理を導入した。具体的にはゲルマニウムやガリウム砒素といった通常の半導体に正孔をドープしたp型半導体において電場を印加するだけで、実は室温でも熱の発生を伴わないスピン流が電場と垂直方向に発生することを理論的に明らかにした。


<研究背景>

 半導体中電子の電流は電場や磁場によって比較的容易に制御できるため、その挙動はほとんど完全に理解されているが、一方のスピンを制御することは一筋縄では行かない。スピンは量子力学と相対性理論の両者の帰結であり、日常的な常識で捕らえきれないものなのである。スピンがはっきりと目に見える形で現われるものに、磁石がある。磁石においては電子のスピンがある方向に揃うことで大きな力を発生するのである。しかし、半導体のように電子または正孔の数が小さい場合に室温でも働く磁石を作ることは困難である。東北大学通信研究所の大野英男教授はガリウム砒素にマンガン原子をドープすることで、絶対温度約140度(-133℃)という比較的高い温度で磁石をつくることに成功し大きな注目を集めているが、室温半導体磁石はその作成が未だ困難である。一方で、鉄やニッケルなどの室温金属磁石と半導体の接合を作り、スピンが偏極した電子を半導体側に注入しようとする試みも行われているが、接合界面でスピンの情報がほとんど失われてしまうという困難があった。

 我々は、磁石における電子の軌道運動の研究を理論的に行ってきた。つまり電子のスピンがその重心の運動に与える影響が、電流となる現象の研究である。そのためには電子が波としての性質を持つ量子力学的粒子であること、それを記述する波動関数というものの振る舞いが電流を決定していることが重要である。この研究の過程でわかってきたことは、電子の波動関数の形を表す「ベリー位相」というものを制御することで、望みの電流を得ることができるということである。特に磁石の中では電子の軌道運動が印加された電場の方向と垂直な成分を持つことが示される(異常ホール効果)。

 今回の研究は、磁石でなくとも上と同様の原理が働いて、スピンの向きによって異なる方向に電子の軌道運動が曲げられる結果、スピン流が発生することを理論的に示したものである。つまり磁石でない極めて広範な物質で電場を印加することでスピン流がそれと垂直方向に発生することを意味している。しかもこれは量子力学的コヒーレンスを保った状態で熱の発生を伴わずに流れるものであり、量子情報技術にとって好ましい条件を揃えている。


<研究成果の内容>

 ゲルマニウムやガリウム砒素の価電子帯(*4参照)の波動関数は、スピン・軌道相互作用(*5参照)の影響を受けて、自明でないベリー位相の構造を持つことになる。この波動関数の位相は電子の軌道運動に直接影響し、自転の向きつまりスピンに応じて異なる方向に電子が動くことになる。その結果、p型半導体に電場を印加すると、それと垂直な方向にスピンの流れが発生することを理論的に示し、その大きさを定量的に評価した。その結果、実際の実験状況で十分の大きさのスピン流が室温でも発生し、有効なスピン源として使えることがわかった。たとえば、正孔のキャリアー密度が1019cm-3のガリウム砒素においてz軸方向の電場を印加すると、y軸方向にスピン流が発生するがその大きさはz軸方向の電流とほぼ同じ大きさに達することがわかる(図1)。さらにこのスピン流は電子を基底状態に保ったままで流れることで熱の発生を伴わないこと、室温でもほとんど減少することがないこと、などを明らかにし、同時にスピン流を検出するための具体的実験の提案をも行っている。
図1 電場によるスピン流

<今後の展開>

 スピントロニクスに、「ベリー位相エンジニアリング」の原理を導入することにより、「室温において熱を伴わずスピンを発生させる」方法を理論的に提示することに成功した。この結果は、半導体それ自身がスピンを作り出すことが出来ることを意味し、スピントロニクスの材料開発という意味でも大きな可能性を広げるものである。本研究に関連して、すでに国内外の幾つかの実験グループがその検証に向けての準備にかかっており、早い時期に実験的確証が得られるものと確信する。さらに、半導体超格子やn-型半導体など他の系への展開を図り、最適の物質系の設計を行って行きたい。

 将来的には、室温で動作し、低エネルギーコストの量子コンピューターを含む量子情報処理の実現を加速するものと期待される。また光機能や熱機能なども含めた広範な問題に「ベリー位相エンジニアリング」の原理を発展させることで、様々な他の応用にも道が開けるものと考えられる。


 この研究テーマが含まれる研究領域、研究期間は以下の通りである。
研究領域: 高度情報処理・通信の実現に向けたナノ構造体材料の制御と利用(研究統括:福山 秀敏 東京大学 教授)
研究期間: 平成14年度~平成19年度

<用語解説>

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本件問い合わせ先:
永長 直人(ながおさ なおと)
 東京大学大学院工学系研究科 物理工学専攻 教授
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村上 修一(むらかみ しゅういち)
 東京大学大学院工学系研究科 物理工学専攻 助手
  〒113-8656 東京都文京区本郷7-3-1
  TEL:03-5841-6813 FAX:03-5841-6844   

古旗 憲一(ふるはた けんいち)
 科学技術振興事業団 特別プロジェクト推進室
  〒332-0012 川口市本町4-1-8
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