研究主題「分子転写」の構想


 原子および分子の識別は、分子集合体から生命が誕生する段階で生命体が獲得した機能である。この識別能力のお陰で生命体は自己保存、自己複製など生命を維持する上で不可欠の現象を滞りなく遂行でさる。生体膜表面におけるレセプター分子の作用、抗原-抗体反応、DNAの複製などはその最たるもので、高度の認識機能なしには不可能な現象である。
 最近、プロープ顕微鏡を始めとして測定機器の急速な進歩が起こり、これらの現象の作用機序を分子レベルで観察、評価することが可能になりつつある。その結果、生体内に仕組まれた種々の作用メカニズムが徐々に解さ明かされ、生命現象の最大の特徴とされる高効率、高選択性の由来を科学の言葉で説明することが可能な時代を迎えつつある。これは、かつて驚異の目で迎えられた”自然界の知恵”を科学現象として把握することが可能なことを意味する。この概念に触発されて誕生したのが分子認識化学である。すなわち、”人間の知恵”を最大限に集積化することにより、自然界が示す高効率、高選択的な原子や分子の識別系を人工的に再構築する試みである。
 従来の分子認識化学における典型的な研究手法は、識別対象となるゲスト原子(または分子)と相補的な形を持つホスト分子を設計し、有機合成化学的な技術に頼って合成していた。この”ホスト・ゲスト化学”において、ホスト分子とゲスト原子(または分子)の間の相補性が良く、かつ水素結合、静電的相互作用、双極子相互作用などによる多点相互作用が起こるようにホスト分子を設計する必要に迫られるため、目的とする機能を発現する複雑な構造のホスト分子を合成するには、しばしば困難が生じていた。
 本研究構想における基本戦略は、この従来型の研究指針に対する逆転構想から生まれたものである。すなわち、識別対象となるゲスト原子(または分子)を”鋳型”として使用し、ホスト分子を構成する分子断片を多点相互作用させてマトリックス上に事前組織化する。この精密配列した分子組織をマトリックスに固定化する。このようにして作製された分子組耗体は、ゲストと相補的な構造を所有し、鋳型として用いたゲストに対する分子記憶を留めているはずである。すなわち、困難な有機合成化学の技術を駆使することなく、分子の自己組織能力を利用して、しかも極めて普遍性に富んだ方法で、精密分子識別能を持つホスト分子を構築することができる。この戦略プロセスは、生態系における抗体が未知の抗原の侵入に対抗するために、姿を変えて抗原と相補性を持つ新抗体へと変化する”抗体触媒”の概念と共通するものがある。本方法論が確立すれば、いかなるサイズ、形の識別対象に対してもユニバーサルに対応することか可能であり、分子認識化学に画期的な大展開をもたらすことが期待される。

 本共同研究では、具体的に次の事項について研究を進める。

(1) 分子記憶を効率よく固定化するための方法論、およぴその概念を導くために有効な分子マトリックス(デンドリマー、フラーレン、ゲル、結晶格子など)を開発する。さらに、分子記憶の刷り込みと消去が可逆的に誘超できるようなスイッチ機能を付与する。
(2) プロープ顕微鏡、表面プラズモン共鳴等を駆使して分子記憶を有する機能性表面を解析し、刷り込み方法と分子組織の相関関係について検討する。
(3) 生体系との接点を求めて、生理活性物質、発がん物質、酵素(タンパタ質)、DNA、リポソーム、糖質などを鋳型として用い、生体系に対して特異的な記憶を持つ分子システムを構築する。さらに、アミノ酸、糖、核酸塩基などに対する分子鋳型のライブラリーを整備する。

 これらの研究により、基礎研究面において、分子認識素子を設計、合成するためのアプローチが、従来型から本研究での分子転写法に代わることか期待される。これにより、普遍的かつ迅速に高精密認識機能を持つ希望のホスト分子が得られるようになり、これは、”形”を認識する分子記憶素子として機能することが期待される。


This page updated on March 31, 1999

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