研究課題「多価冷イオン」の構想


 多価イオンは、近年になって、にわかに注目を集めるようになった新しい粒子である。電子をまったく持たない裸になった重イオンや、電荷数の極めて高い多価イオンは、中性原子や低価数のイオンにはない著しい特徴を持っている。
 多価イオンそれ自身の原子構造と量子遷移の研究は、量子力学の根源にかかわる基礎科学の重要問題を含んでいる。多価イオンに束縛された電子は、原子核の強いクーロン場の中で、核の近くを光速に近い速度で運動しており、通常の原子とはまったく異なる量子状態をもつが、これまでそれを詳細、精密に調べた研究例は極めて少ない。物質との相互作用の面で多価イオンを見て、その特徴を一言で言えば、それは極めて大きな内部エネルギーを持っていることにある。このことが、物質への影響を、他の粒子とは質的に異なったものとさせる。物質内の電子から見ると、多価イオンは”静電的ブラックホール”とも称せられるべき存在で、大きな吸引力をもつ粒子として振る舞い、特異的な相互作用を示すことか予想されるが、この観点にたった研究は未踏の領域である。
 これらの多価イオン本来の研究を効果的に行うためには、それが冷却された、エネルギーの低い状態にあることが不可欠の条件であるが、これまで行われた研究例が極めて少ないのは、このような条件を満たす多価イオンを作り出すことが極めて困難であったことによる。最近、本共同研究の日本側代表研究者である大谷俊介氏を中心として、イオントラップ中にイオンを長時間閉じ込め、ウラン元素をも完全に裸にしうる高エネルギー電子ビームを用いて多価イオン化を進める原理に基づく、世界最高の性能を有する重元素の多価イオン生成装置が開発・完成された。また、ほぼ同時に、オックスフォード大学において、英国側代表研究者のJ.D.シルバー氏らにより、軽元素の多価イオンの生成を主目的とする上と同種の装置が建設されており、軽元素から重元素にわたる冷却された多価イオンの生成とそれを用いた研究を行いうる素地が形成された。
 一方、この研究の推進には、イオントラップと新しいレーザー技術の閑発・進展が不可欠の要素である。英国の国立物理学研究所(National Physical Laboratory,NPL)では、長さと時間の新しい標準を作る事への基礎研究として、これらの開発研究が精力的に進められている。そこで、本研究では、ここで進展している技術要素を導入して、トラップされたイオンを極限まで冷却し、そのイオンを用いた物質との相互作用の研究および精密分光学による原子構造の研究など、新しい基礎科学の展開を目指す。

 本共同研究では、具体的に次の事項について研究を進める。

(1) 多価イオンの原子構造の研究
 多価イオンの原子構造を分光学的に研究する観測領域は、相対論・量子電磁カ学的効果を顕著に示すラムシフトや超微細構造に対して、低価数イオンでのラジオ波領域から、多価イオンになると可視光領域へ移行する。そこで、これらの観測には、現在のレーザーとイオントラップ技術を駆使して精密な研究を行いうる可能性があり、これまで行われたことのないこの研究を通して、現在用いられている量子の世界の基礎理論の適用性とその限界を知ることができる。また、多価イオンの通常の電子状態間の遷移エネルギーは、重元素になると高エネルギー]線領域になる。現在の技術では、これを精度良く測定することができないが、本共同研究において、種々の新しい技術開発を行い、多価イオンからの高エネルギー]線を精密に観測し、量子物理学の新しい展開に貢献するとともに、天体および実験室プラズマの理解に不可欠な重要な知見を提供する。
(2) 多価イオンの固体表面励起過程
 多価イオンは、たとえ運動エネルギーを持たなくとも、それ自身の大きな内部エネルギーのため、物質に近づくと他の粒子とは質的に異なる著しい相互作用を引き起こすことが予想されるが、これまで詳しく調べられた例は少ない。そこで、本研究では、冷却された低エネルギーの多価イオンを作り出し、それを各種制御された固体表面に導き、そこで起きる様々な現象を系統的に観測するとともに、表面近傍での改質効果を調べ、多価イオンをプローブとする固体表面との相互作用を研究し、新しい物質科学の展開に寄与する。
(3) 多価イオン化による原子核の壊変過程
 完全に電離が進んだ多価イオンは、原子核そのものであり、わずかに少数残った電子も、核の強い影響下にある。したがって、多価イオンの研究は、本質的原子物理学と核物理学の境界領域にある。ここでは、元素が多価イオンになることにより、はじめて起きる原子核の壊変過程、安定性の問題を探索し、原子宇宙あるいは恒星内部で元素が作り出される変遷過程のメカニズムに対して、新しい知見を付与する。
(4) トラップされたイオンの冷却
 本研究を効果的に行うために必要な共通の課題として、トラップ中に閉じ込めたイオンを極限的に冷却する技術開発が不可欠である。このイオントラップにおける新しい技術開発の達成により、多価イオンの精密分光と冷却イオンの種々の応用が可能となり、加えて長さと周波数の標準を決定することに新たな道を開拓する研究へと発展する。


 これらの研究、すなわち、実験物理学の世界に新たに登場した多価イオンを縦横に駆使する研究により、その原子構造の観察を通し、最も基礎的な量子物理学の新しい展開を促し、固体表面との相互作用の理解を通し、多価イオンによる表面構造改質の新しい方法の開拓が期待される。また、多価イオンによる原子核の安定牲の変化の様子を調べることにより、宇宙における元素創成のシナリオ作り、および、放射性物質の処理方法などに新しい着想を生み出すことが期待される。


This page updated on March 31, 1999

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