科学技術振興事業団報 第295号
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科学技術振興事業団
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「ピロリ菌が分泌するVacA毒素の標的分子を同定−胃潰瘍発症のしくみを解明」

科学技術振興事業団(理事長 沖村憲樹)の戦略的創造研究推進事業の研究テーマ「網膜内領域特異化と視神経の発生・再生機構」(研究代表者:野田昌晴 岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所・教授)で進めている研究により、胃炎並びに胃潰瘍の原因であるヘリコバクター・ピロリ菌が胃潰瘍を引き起こすしくみを明らかにした。ピロリ菌の分泌する毒素(VacA毒素:以下、本毒素)が胃粘膜の細胞膜上にあるタンパク質(プロテインチロシンホスファターゼζ:以下、タンパク質PtprZ)に結合し、これを不活化する。これによって誤った信号が細胞内に入ることになり、その結果、上皮細胞が胃の基底膜から剥がれることが胃炎、胃潰瘍発症の直接の原因と考えられる。本成果は、岡崎国立共同研究機構・基礎生物学研究所 野田昌晴教授らの研究グループによって得られたもので、平成15年2月24日付の米国科学雑誌「ネイチャー・ジェネティックス」オンライン版で発表される。



 ヘリコバクター・ピロリ菌※1は世界の総人口の約50%に感染していると推定され、胃炎並びに胃潰瘍の原因の一つとされている。我が国においても、感染率は年令とともに上昇し、70代では85%に達している。これまで胃炎・胃潰瘍の直接の原因は、ピロリ菌が分泌する本毒素が胃粘膜の細胞内に多数の空胞を生じさせ、最終的に細胞を死に至らしめるためと考えられてきた。
 しかし今回、野田グループは胃粘膜の細胞膜上にあるタンパク質PtprZの遺伝子を人為的に欠損させたマウスを用いた実験により、本毒素による胃潰瘍の形成は、細胞の空胞化※3が直接の原因ではなく、本毒素が胃粘膜細胞のタンパク質PtprZに結合することによって細胞内へ誤った信号が伝達されることによるということが明らかにした。

 今回、明らかになったことを列挙すると、
(1) これまでタンパク質PtprZは神経系の細胞にのみ存在していると考えられてきたが、胃粘膜の細胞においても少ないながら存在していることが判明した。胃では、タンパク質PtprZの類似タンパク質が3種類存在した。これは、マウスだけではなくヒトにおいても同様であった。
(2) タンパク質PtprZ遺伝子欠損マウス(タンパク質PtprZをもたないマウス)と普通の野生型マウス(タンパク質PtprZをもつマウス)に対して、精製した本毒素を経口投与すると、2日後、タンパク質PtprZをもつマウスだけに胃潰瘍が発症した。これは、本毒素の経口投与により発症させた場合にのみ見られる現象であり、エタノール等による胃潰瘍発症では両遺伝子型で差が見られなかった。
(3) 本毒素投与後5時間の時点(症状はまだ現われていない)で見ると、タンパク質PtprZをもつマウス、タンパク質PtprZをもたないマウスにおいて全く同様に、本毒素は胃粘膜細胞中に取り込まれていた。
(4) 両マウスから胃粘膜の細胞を採取して培養し、これに本毒素を投与した場合にも、本毒素は等しく細胞中に取り込まれるだけでなく、同程度の細胞空胞化を引き起こした。
(5) この時、両細胞は本毒素によって同程度の細胞分裂阻害を受けたが、タンパク質PtprZをもつマウスの細胞だけが、本毒素投与後4時間頃から脱接着(実験ではシャーレ上で胃の中の環境を人工的につくっている)し始め、48時間後には全て剥がれ落ちた。
(6) 本毒素はタンパク質PtprZに直接結合すること、また、その結合はタンパク質PtprZを不活化させることが判った。タンパク質PtprZが作用する細胞内の分子としてGIT1と呼ばれる分子を既に同定していたが、本毒素投与後、30分でGIT1のチロシンリン酸化レベルが上昇した。このチロシンリン酸化レベルの上昇はGIT1の不活化を意味している。GIT1は細胞の運動や接着、細胞内小胞の動態に関わるとされている分子であることから(5) の現象に関わる可能性が高い。
(7) これまでの研究で、タンパク質PtprZに対して元来体内に存在するリガンド※4(タンパク質PtprZに結合し作用する分子)としてプレイオトロフィン(PTN)を同定していたが、PTNの経口投与によっても胃潰瘍が発症することが示された。
 以上の結果を総合すると、本毒素は胃粘膜の細胞内に取り込まれ、細胞空胞化を引き起こすものの、それが胃潰瘍の直接原因ではない。むしろ、本毒素は胃粘膜の細胞膜上のタンパク質PtprZに結合し、そのリガンドとして作用することによってタンパク質PtprZを不活化し、この誤った信号が細胞内へ伝達されることによって細胞内分子のチロシンリン酸化レベルの亢進を引き起こすこと、特にGIT1等、胃粘膜の細胞が胃の基底膜へ接着することに関わる分子の機能を損なうことによって脱接着を引き起こすことが、胃潰瘍発症の直接的要因であることを示している。この発見は、胃潰瘍の予防・治療を効果的に行う上では非常に重要なものであると考えられる。

この研究テーマが含まれる研究領域、研究期間は以下の通りである。
研究領域:生物の発生・分化・再生(研究統括:堀田 凱樹、国立遺伝学研究所 所長)
研究期間:平成13年度〜平成18年度

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本件問い合わせ先:
 野田 昌晴(のだ まさはる)
  岡崎国立共同研究機構 基礎生物学研究所
  感覚情報処理研究部門
   〒444-8585 岡崎市明大寺町字西郷中38
   TEL:0564-55-7590 FAX:0564-55-7595
 藤川 顕寛(ふじかわ あきひろ)
  岡崎国立共同研究機構 基礎生物学研究所
  感覚情報処理研究部門
   〒444-8585 岡崎市明大寺町字西郷中38
   TEL:0564-55-7593 FAX:0564-55-7595
 蔵並 真一(くらなみしんいち)
  科学技術振興事業団 研究推進部 研究第二課
   〒332-0012 川口市本町4−1−8
   TEL:048‐226‐5641 FAX:048‐226‐2144
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[補足説明]
図1 胃組織構造
図2 空胞化現象
図3 上皮細胞の剥離
図4 胃潰瘍の形成



This page updated on February 24, 2003

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