[補足説明]


 
(研究の背景)
 脳科学の最近の進展は著しく、従来は自然科学の対象になり難いとされていた精神現象を客観的に把握し、解析することが可能になってきた。
 従来の脳研究は、脳の一次感覚野あるいは一次運動野と呼ばれる、脳に入力する感覚神経から感覚情報を直接受け取ったり、脳から出力する運動神経を通して運動情報を直接出力したりする部位の働きが研究対象の中心であった。しかし最近では情報認知や行動企画など、より高次元の脳の働きが研究対象となり、さらに複雑な心理現象までもが研究のターゲットに加えられている。
 このような研究発展の推進力となったのは、ヒトの脳の活動を画像として描画できる陽電子断層撮像法(PET)や機能的磁気共鳴法(fMRI)の導入である。これらの脳活動イメージング法によって、認知・行動企画・記憶等の高次機能のみならず、言語や情動の発現機構、さらには抽象的概念形成までもが研究され始めている。しかし現時点においては、PETやfMRIのような脳活動イメージング法は、脳機能がどこに局在するかについての大まかな情報を与えてはくれるが、脳の機能が如何にして実現されるか、そのメカニズムを知らせてはくれない。
 脳の高次機能の実態とその動作原理を具体的に知るには、どうしても脳の細胞レベルにまで立ち入って、精密に活動を解析することが必要となる。本研究は、“数”という抽象的な概念が脳の中でどのように形成されるかという疑問に対し、細胞の働きとして客観的に答えようとするもので、このような抽象的概念を表現する脳細胞活動の発見は、世界で初めてである。
 
(具体的な実験結果・考察)
 抽象的な概念のひとつである“数”が、どのように脳の内部で形成されるかを知るために以下の実験を行った。実験モデルとして、サルに数を数えさせる実験系を採用し、その時の脳細胞の活動を詳しく調べた。
 数を数えさせるために与えた課題は、2種類の動作のどちらかを選択し、その動作を5回繰り返すということであった。さらに、ひとつの動作を5回繰り返した後で、もうひとつの動作を選択することを要求した。動作変更を行うための情報源は他になく、自己の動作回数を数える以外には要求どおりの動作を選択することはできない。そのような要求を満たすことが可能であることは、行動データで確認できた。
 この行動課題を行っている脳の細胞活動を記録・解析した。その結果、大脳頭頂葉の5野と呼ばれる部分において、動作回数を表現する細胞活動が多数見つかった。具体的には、例えばある細胞集団は3回目、あるいは5回目といった細胞に固有の「回数」で活動し、別の細胞集団は2回目と3回目、あるいは4回目と5回目といった細胞に固有の「パターン」で活動することが見つかった。このような特定の動作回数を反映する細胞活動の発見は、すなわち数の表現そのものを、細胞活動として発見したことになる。
 大脳の他の領域では、そのような細胞活動は少なかった。例えば本研究テーマの中心的な研究対象である前頭前野では、数を表現するのではなく、別の動作を選択する際に著明な活動を示す例が多かった。
 さらに、大脳頭頂葉の5野に、抑制物質であるムシモールを微量注入して、一過性に機能を脱落させ、その効果を調べた。その結果、5野の機能脱落によって、上記の課題遂行が障害されることが判明した。したがって、動作回数を元にした動作選択には、5野の機能が不可欠であることが証明された。
 頭頂葉の5野は、これまで身体の姿勢や外部と身体の接触に関する情報を取り扱うとされてきた。頭頂葉の5野が数の処理をしていたことの発見は意外であり、この分野の専門家にも驚きをもって受け止められている。
 
(今回の成果のポイント)
 ヒトばかりではなく、サルにも数を数える能力がある。今回の発表では、まずその能力を行動実験で明らかにし、次に数を数えながら動作を選択している時の細胞活動を大脳の多数の領域で記録・解析した。その結果、大脳の頭頂葉に、数を表現する細胞活動があることを発見した。具体的に3回、5回といった動作回数そのものが、脳細胞1個づつの活動としてそれぞれ表現されているという事実は、全く予想外であり、驚異的でさえある。
 今回の発見は、“数”のような抽象的概念が、脳の細胞の働きとしてどのように表現されているかを理解する、先駆的な研究成果である。
 
(研究成果の社会的意義)
 この研究は、「脳を知る」という大きな目標を掲げた戦略的基礎研究推進事業のひとつとして行われたものである。今回得られた成果のような、抽象的概念を担う脳の働きを理解することは、脳を舞台とした心理的・精神的現象を理解するという意味で、脳を知ることに関し画期的な研究成果のひとつと思われる。
 数の概念を表現する脳の働きを大脳の特定の部位に同定し、それに関与する細胞集団を見出して、それらの細胞活動の特性を集約的に明らかにした。今後、他の多くの脳機能についてもこのような具体的理解が進む可能性があり、脳が行う精神機能の実態を細胞活動の時間的・空間的パターンとして表現できることが期待される。それは、ヒトのヒトたるゆえんである心の働きの理解につながり、さまざまな精神疾患における徴候がなぜ生ずるかを理解することにもつながると思われる。このような研究は人工知能の開発や教育理論の発展にも寄与することが期待される。
 他方、ヒトゲノムの解析に代表されるような分子生物学の発展が著しい現在、脳の細胞を構成する微細な素子や生理活性物質に関する知識が飛躍的に増大している。それらの物質や構造の作用に関する研究が広範に進められているが、その大半は極めて局所的なレベルでの作用理解にとどまっている。今回の発表のように、脳がシステム的に働いて個体に具体的な機能をもたらしている時に、どの部位のどの細胞集団がどのように活動しているかを知ることができたことから、将来的には分子生物学的知識とシステムレベルでの脳の働きの理解を有機的に結合させる新たな研究方向が展望される。そのような次世代の研究は、医学・生物学のみならず広く人文・社会科学にも転機をもたらし、社会の発展に寄与することが期待される。
 

This page updated on February 25, 2002

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