黒田カイロモルフォロジープロジェクト


1.総括責任者

 黒田玲子(東京大学大学院総合文化研究科生命環境科学系 教授)

2.研究の概要

 自然界にはキラリティー(chirality, 掌性)注1)という概念で表現できる事象がある。これは、単独分子、結晶、生物個体などの様々な階層で普遍的に観察される事柄である。
生命世界においてキラリティーは特に興味深い。分子レベルにおいては、生命世界は物質世界と異なりホモキラル注2)であり、生命体の基本分子である核酸(DNA, RNA)中の糖とタンパク質を構成するアミノ酸(グリシンを除き)はキラルであり、しかも一方のキラリティーの分子のみから構成されている。これは、地球上の全現存生物に共通しており、鏡像分子からできた生物は存在しない。一方、マクロなレベルでは、多くの動物はほぼ左右対称な外形と左右非対称(キラル)な体内構造を発達させてきた。ごく最近になって、脊椎動物の左右軸形成に関わる因子の研究が行われるようになり、いくつかの遺伝子産物(タンパク質)のローカルな役割が明らかになってきたが、これがどのように細胞レベルのシステムへと構築され、生物個体の形態に現れてくるのかは未だ不明である。また、発生・発達のある段階で、タンパク質中とは逆のキラリティーの遊離アミノ酸が一過的に存在することが知られているが、その役割もいまだ不明である。
無脊椎動物である巻貝は分子系統学的に単一祖先から進化した単系統の種群で、ボディプランの左右軸が完全に(外形も体内構造も)逆転した鏡像体も正常体であり、右巻きが優性なもの、左巻きが優性なもの、例外的に両者共存するものもある。これらでは分子のキラリティーが逆転しているわけではない。
 本研究は、分子レベルと生物個体レベルにおける形態の左右(カイロモルフォロジー)の識別・形成の機構に焦点を当て、ミクロとマクロの架け橋をキラリティーという切り口から探求するものである。
 キラリティーはキラルな要因があって初めて識別されるものであり、分子のキラリティーに関しては、気体、液体状態よりは分子間相互作用が密な固体状態の方がはるかに識別されやすいと考え、生命体構成分子に見られるホモキラリティーの確立を固体状態の化学反応の視点から探究する。分子が絶えず動いている溶液状態と比べ、分子の相対的位置が固定されている固体状態は、キラリティー識別のユニークな反応場となり得る。従来、化学反応は溶液状態で行うことが主流であるが、本研究では固体状態を中心にゾル・ゲルなどの半固体状態を含めて、キラリティーを識別できる特殊な分子環境およびキラルでない分子へキラリティーを誘導・増幅できる分子環境を構築し、これらを利用した新しい概念の化学反応を開拓する。固体状態で特異的に起こるこれらの反応の機構・ダイナミックスの究明を通して、生命体を構成する分子のホモキラリティー確立のプロセスへのヒントが得られると期待される。
また、キラリティーを支配する遺伝子とその遺伝子産物がマクロなレベルでの生物個体のキラルな形態形成にどのように関わっていくのかを探求する。鏡像体が正常に存在する生物について、初期発生における卵割の過程などを分子レベルで明らかにすることにより、ミクロとマクロをリンクさせる根源的な問題の解決の一つの突破口になるものと期待される。
これらの研究により、未だ応用の進んでいない固体化学反応を用いた生理活性物質の新規合成法、特に固体状態での反応は溶媒を使わず環境への負荷が小さいため、有用な合成技術の開拓への展開が期待される。また、キラリティーの識別機構の探究は、将来的に医薬品の探索や薬理作用の理解などの基盤的な技術につながることが期待される。

3.研究の進め方

 本研究では、(1)分子カイロモルフォロジー(2)生物カイロモルフォロジーの2グループを設定し、相互に密接な連携を保ちつつ研究を展開する。多分野にわたる複合研究であるため、研究の進展に応じつつ、化学(合成、構造、分光、計算)、生物化学、分子生物学、発生学、構造生物学などの異なった分野からの研究者を結集する。

4.研究事項

 (1)分子カイロモルフォロジー

 キラリティーを識別できる特殊な分子環境およびキラルでない分子へキラリティーを誘導・増幅できる分子環境を構築し、これらを利用した新しい概念の固体状態での化学反応を開拓する。偽のシグナルをできるだけ除去した固体状態のCDスペクトル注3)測定法の開発を行い、認識機構の解明、反応のダイナミックスの追跡を行う。

 (2)生物カイロモルフォロジー

 同種の巻貝の左右巻型両系統を材料として巻型決定因子を分子レベルで解明する。巻貝の巻き方は胚初期のらせん卵割注4)の方向により決定され、これに関わるのは遺伝学的に母親由来の因子であることが知られている。そこで、右巻と左巻の巻貝の発生初期段階での遺伝子発現を比較し、未分割卵へのマイクロインジェクションによるバイオアッセイ等を行い巻型決定因子の単離・同定を行う。近年他生物において左右軸決定因子がクローニングされているが、それらとの関連性についても考察する。

5.研究期間

 平成11年10月1日〜平成16年9月30日

用語解説

注1) 右手と左手のように、実物と鏡にうつった像が別物である場合に、このような形態上の性質を「キラル」である、あるいは「キラリティー」があるという。
注2) キラルな分子には二つの鏡像異性体が存在するが、例えば生体物質は一方の異性体のみにより構成されている。このような状態を「ホモキラル」と呼ぶ。
注3) CDとは円二色性(circular dichroism、円偏光二色性ともいう)の略語。キラルである分子は右円偏光と左円偏光に対する吸収の度合い(吸収強度)が異なりその差をCDと呼ぶ。また、光の波長によるCDの変化を示す曲線をCDスペクトルと呼ぶ。
注4) 無脊椎動物に見られる特異な受精卵の細胞分裂様式。卵割の際に形成される紡錘体が卵の主軸に対してある一定の角度で傾くため、卵の一方の極から見て右回り(右旋性)または左回り(左旋性)の渦巻を描いて細胞が配置される卵分割のこと。

This page updated on October 5, 1999

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