Topics02 戦略的創造研究推進事業CREST「精神・神経疾患の分子病態理解に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」研究領域/研究課題「恐怖記憶制御の分子機構の理解に基づいたPTSDの根本的予防法・治療法の創出」 海馬における生後の神経新生が恐怖記憶の処理にかかわることを発見 海馬と記憶

脳の海馬で新しく生まれた神経細胞は、記憶の獲得だけではなく消去にもかかわっている――
トラウマ記憶が原因となる心的外傷のストレス(PTSD)などの
精神疾患予防・治療に新たな展開が期待される。
 
井ノ口馨 (いのくち・かおる) 富山大学大学院医学薬学研究部生化学講座教授。農学博士。名古屋大学大学院博士課程修了後、コロンビア大学医学部研究員、ハワードヒューズ医学研究所リサーチアソシエート、三菱化学生命科学研究所グループディレクターなどを経て現職。
用語解説 海馬
ヒトの海馬(赤い部分)
脳領域の1つ。小指ほどの大きさで、ギリシャ神話の海神ポセイドンがまたがる架空の動物・海馬の尾の形に似ていることから名付けられた。記憶を思い出す際、最初は海馬のはたらきを必要とするが、げっ歯類では数週間後、ヒトでは半年から数年後には必要がなくなる。このため、記憶は最初海馬に貯蔵された後、別の脳領域(大脳皮質)に移行するとされるが、その仕組みは明らかになっていない。また、海馬では大人の脳でも新しい神経細胞が生まれている。
実証実験のまとめ 1野生型マウスでは、28日後の記憶想起は海馬のはたらきを必要としなかった(記憶が大脳皮質に転送された)が、X線照射により海馬の神経新生が消失したマウスや遺伝子操作により神経新生が消失したマウス(FSM)は、28日後の記憶の想起に海馬のはたらきを必要とした。 
★神経新生は海馬記憶の消去に関与している!
2野生型マウスでは、7日後の記憶は部分的に海馬依存的であったが、豊富環境下(廻し車のある飼育ゲージなど)の飼育で海馬の神経新生が促進したマウスは、7日後の記憶は海馬非依存的(すでに大脳皮質に転送された)であった。

「想定外」の実験結果から
斬新な発見が生まれた

 記憶が最初に貯蔵される海馬。その海馬で神経細胞が絶え間なく生まれていると聞けば、その細胞は記憶の獲得にかかわると考えるのが自然だろう。分子レベルで脳機能の解明に取り組む富山大学の井ノ口馨教授も、当初はそう考えていた。
「ある経験をすると、海馬の神経細胞ではシナプスの伝達効率が上がり、その状態がしばらく続きます(長期増強=LTP)。神経細胞の新生を阻害すればLTPが起きにくくなるだろうと考え、たしかめてみました」
 ところが、実験結果は予想とは違っていた。神経細胞の新生を阻害したマウスでも、LTPは普通のマウスと同じように起きてしまう。ガッカリしながらもデータを取り続けたところ、さらに「想定外」の結果が出た。1回起きたLTPは、普通のマウスなら2週間くらいで減少する。ところが、神経細胞の新生を阻害したマウスは2週間経っても減少しなかったのだ。「神経細胞の新生は記憶の獲得ではなく、消去にかかわるのではないか」――新たに生まれた仮説をたしかめるため、井ノ口教授は神経細胞の新生を阻害したマウスに恐怖記憶を獲得させ、持続時間を調べてみた。ところが結果は、通常のマウスと変わらない。再び仮説を否定されたように思えるが、今度は「想定内」だった。
「記憶は次第に海馬から消去されて、大脳新皮質へ移ります。だから、恐怖記憶の持続時間に変わりはなくても、通常のマウスでは記憶が大脳新皮質に移っているのに対して、神経新生を阻害したマウスではまだ海馬に残っているのではないかと考えました」
 そこで、さらなる実験を試みた。すると、通常のマウスは4週間後には恐怖記憶を思い出すために海馬のはたらきが必要でなくなるのに、神経細胞の新生を阻害したマウスではまだ海馬を必要としていた。一方、記憶後、まだ日が浅い7日後では、通常のマウスは依然として海馬のはたらきを必要としているのに対し、神経細胞の新生を促進したマウスは必要としなくなっていた(右図「実験のまとめ」参照)。こうして、「神経細胞の新生は記憶の獲得だけではなく、海馬の記憶の消去にかかわる」という斬新な仮説が証明されたのだ。

海馬から記憶を消去するから
新しい記憶を獲得できる

 神経細胞の新生が記憶の消去にかかわるのなら、新生が起きなければ記憶力がアップすると思える。しかし、実際には年をとるほど新生は減少し、記憶力は衰えてしまう。一見、矛盾しているように思えるのだが?
「神経細胞の新生は海馬で起こります。海馬は記憶が一時的に蓄えられる場所で、記憶容量は小さく、すぐにいっぱいになってしまう。だから、海馬は記憶を整理し、消去して、容量がはるかに大きい大脳新皮質に送ることで、新しい記憶を獲得するスペースを作ります。このはたらきに、神経細胞の新生がかかわっているのです。だから、年をとって新生が活発でなくなると、海馬の記憶容量がすぐにいっぱいになり、記憶力が衰えると考えられます」
 こうした記憶をめぐる海馬と大脳新皮質のはたらきが、知識の獲得にも大きな役割を果たしていると井ノ口教授は考える。
「知識は、似たような記憶をつなげて意味のあるものに変えることから生まれます。大脳新皮質にはたくさんの引き出しがあり、そこに整理された記憶は安定していて互いにつながりにくい状態にあると考えられます。しかし、何かを思い出すときには、記憶が引き出しから海馬へと引っ張り出される。このとき、記憶は不安定な状態になります。そして、再び引き出しにしまわれるとき、似たような記憶がつながり、再固定する――こうして「記憶」は「知識」となるのではないかと考えられるのです」
 今回の発見をこうした知見と結び付ければ、PTSD(心的外傷後ストレス)の予防にもつながると期待される。
「たとえば地下鉄で事故に遭ったPTSDの患者さんは、地下鉄だけでなく車にも乗れなくなったり、人ごみにいられなくなったりする。それは、事件の記憶が海馬にあるうちにほかの記憶と強くつながったままになってしまうからだと考えられます。PTSDにつながりそうな経験をしたときに神経細胞の新生を促進させれば、早めに海馬から記憶を消去し、PTSDを防げるかもしれません」

高校時代の疑問を追いかけて
分子生物学から脳科学へ

 井ノ口教授が脳科学の道に進んだのは30歳代半ば。分子生物学者からの転進だった。その原点は高校時代にある。
「『人間とは何か』を知りたいと思い、カントやニーチェなどを読みあさりました。やがて哲学ではなく自然科学に答えがあるのではないかと気づきましたが、いきなりヒトで答えを求めるのは難しい。まずは単細胞生物で生命を解明しようと考えたのです」
 こうして分子生物学の道に進んだが「人間とは何か」という思いは頭から離れない。調べたところ、記憶というアプローチなら分子生物学の経験を生かして人間に迫れる感触を得た。分子レベルでの脳科学は、当時は未開拓の荒野だったが、脳科学の権威であるアメリカのエリック・キャンデル教授が可能性を見出していると知り、自らの研究プランを示した手紙を送った。面識はなかったが、1週間ほどで快諾の返事をもらう。意を決して渡ったアメリカで、井ノ口教授のその後の記憶研究における進路の基盤ができたのだ。
「アメリカに渡るとき、日本で築いてきたものはすべて捨てました。不安はありましたが、自分は心が弱いから、それくらいしなければダメだと思ったんです」
 いまでは状況がガラリと変わり、分子生物学者が次々と脳科学の分野に進出する時代となった。それでも脳科学には未知の分野が広がっている。
「脳科学の現在は、物理学でいえば16世紀、ガリレオやニュートン以前の状態といわれます。脳のはたらきの部分部分は解明されつつありますが、共通する根本原理が見つかっていないのです。しかし、機は熟している。もう間もなく、次の世代から脳科学のガリレオやニュートンが出るのではないでしょうか」
 ガリレオやニュートンの発見は、常識にとらわれず自らの疑問を追求することから生まれた。「人間とは何か」から出発した井ノ口教授をはじめとする、さまざまな脳科学の探求は、やがて大きな波となり、私たちを新しい時代へと導いてくれるだろう。

TEXT:十枝慶二/PHOTO:今井 卓