Close up インフルエンザ関連の基礎研究を緊急拡大 インフルエンザをコントロールする


新型インフルエンザウイルスの出現メカニズム

part02 インフルエンザの“克服”に向けて
喜田 宏 (きだ・ひろし) 北海道大学大学院獣医学研究科修士課程修了。武田薬品工業(株)技術研究職、ザンビア大学教授などを経て現在は北海道大学人獣共通感染症リサーチセンター長。JST「インフルエンザウイルスライブラリーを活用した抗体作出及び創薬応用に向けた基盤研究」研究代表者。

起こりうるすべての
新型インフルエンザの可能性に備える

 今、新型インフルエンザと聞けばほとんどの人は2009年春に登場した、豚由来のH1N1亜型ウイルスを思い浮かべるだろう。しかし、2009年の4月までは、高病原性H5N1亜型の鳥インフルエンザウイルスが新型インフルエンザとしてヒトの間でパンデミックを起こす可能性が、大きな危機感を持って語られていた。それがすっかりH1N1亜型にとって代わられた形だが、決して、H5N1亜型の脅威が減ったというわけではない。そんな状況に警鐘を鳴らすのが、北海道大学人獣共通感染症リサーチセンターのセンター長を務める喜田宏教授だ。
 「新型インフルエンザウイルスが、特定の型に限らないことは明らかです。H1N1亜型ばかり、あるいはH5N1亜型ばかりが注目される状況は好ましいとはいえません」
 インフルエンザウイルスの表面に存在するたんぱく質のうち、HAにはH1〜H16の16の亜型、NAにはN1〜N9の9の亜型があり、その組み合わせによって、理論上は144の型が存在する。そのすべてに次の新型インフルエンザとなる可能性があり、どれが出現するかを断言することはできない。そこで喜田教授が取り組んでいるのが、あらゆる新型ウイルスの可能性に備える“ウイルスと抗体ライブラリー”の構築と、それを創薬に応用するための基盤の確立だ。(下図囲み記事参照)
 「いつ、どんな型のウイルスが出現してもいいような備えをするわけです。すでに144通りのウイルスライブラリー化は実現しているので、次は、それに対する抗体を作り、医薬品として役立てます。さらに、これらのウイルスでワクチンを作り、凍結保存をしておきます。何年か後、新型が出現したときに、その効力を発揮すると思いますよ」

徹底したフィールドワークで
新型ウイルスの出現メカニズム解明

 144通りもウイルスは存在しうるが、喜田教授には、そのうちのどれが出現しやすいか、優先順位がつけられるという。
 「特にH13からH16は、自然界ではほとんど見つかりません。自然界にあるものがすべてのウイルスの起源になりますから、自然をしっかりと見つめることが大切なんですよ」
 その言葉どおり、喜田教授はこれまで、徹底したフィールドワークを世界各地で実践し続けてきた。インフルエンザウイルスの運び屋になっている野生のカモが、渡りの際に飛来する湖などを訪れ、糞を採取してウイルスの有無を調べる。そうした地道な研究の積み重ねの結果、1968年にパンデミックを引き起こした香港風邪ウイルス(H3N2亜型)の出現メカニズムを解明した(上図参照)。
 「インフルエンザウイルスは、そもそも野生のカモの消化器官に感染します。そのカモから農家の池の水を介してアヒルに感染し、そのアヒルで増殖して、排泄されたウイルスを含む水を飲んだ豚に感染する。その豚が、ヒトのウイルスにも感染して、豚の体内で遺伝子再集合が起きて、香港ウイルスになったのです」

世界の研究者とともに
地球規模でウイルスを継続調査

 「野生のカモは、アラスカ、シベリアなどの湖を繁殖地としています。これらの湖は、カモたちが渡りのために飛び立った後、冬には凍ってしまいます。このとき、ウイルスも凍結保存され、春になったら溶けだして、再び戻って来たカモたちに感染する。いわばウイルスの貯蔵庫のような役割を果たしているのです」
 こうした知見があるからこそ、自然界にあるウイルスの継続的な調査の重要性を喜田教授は実感しているのだ。実際に、北大人獣共通感染症リサーチセンターでは各国の研究者や技術者を招き、持っているノウハウを伝授することで、地球規模でインフルエンザウイルスなどの調査を行うネットワークの構築にも取り組んでいる。

季節性インフルエンザ
対策をしっかりと

 現場でウイルス研究に携わってきた喜田教授は、インフルエンザに関する誤った知識が流布している現状にもどかしさを感じることが多い。
 例えば、スペイン風邪が多くの死者を出したことから、新型インフルエンザは季節性インフルエンザよりはるかに怖いと思われがちだ。しかしそれは誤りだという。
 「スペイン風邪による死者の多くは、細菌の二次感染が原因だったとわかっています。当時は第一次世界大戦中で、戦地に赴いた兵士の間で大流行しました。狭い塹壕の中で何人もがひしめき合う、戦地という環境は不衛生きわまりありません。抗生物質もまだない時代です。新型だから怖くて季節性だから怖くないと考えるのは間違っています。新型インフルエンザといっても、私たちがすでに経験している季節性のインフルエンザと同じなのです。今回の新型インフルエンザも、この冬の流行を経て、季節性のインフルエンザになるとみていいでしょう。つまり、季節性インフルエンザの対策をしっかり行うことこそが大切なのです。季節性インフルエンザをあなどってはいけません。実際に、毎年、季節性による死者は日本人だけでも何千人も出ているのですから」
 ところが、その季節性インフルエンザへの対策は、後手にまわりがちだ。
 「かつては、小学生に対するインフルエンザワクチン接種が義務づけられていました。ところが、きちんとした根拠がないままその効果が疑われ、1994年を最後に行われなくなりました。そうした影響もあって、民間企業はワクチンの製造から撤退しました。今、新型インフルエンザの流行を前にしてワクチンが足りず、外国から買えばいいという意見もあります。しかし、それは恥ずべきことだと思います。日本には、ワクチンを作る技術も経済力もある。本来なら、ワクチンを作れない国々に送るべきではないでしょうか」
 じつは、河岡教授にとって喜田教授は、北海道大学時代の恩師だ。当時の専門はインフルエンザではなかったが、糞の採取などのフィールドワークには参加しており、後にインフルエンザの研究に進むことになったのも、喜田教授の導きがあったからこそだという。何より、研究者としてのあり方について、教えられることが多かったと河岡教授は語る。
 「サイエンスは人間がやるものだとよく聞かされました。まわりがどう思おうと、人間として正しいことを言うべきだと」
 そうした喜田教授のぶれない姿勢が、河岡教授にも受け継がれているのだ。
 江戸時代の“お染風邪”も、今回の新型インフルエンザの流行も、その正体がおぼろげにしか見えないことが、人々の不安をかき立て、判断力を奪うことになるのだろう。しかし、未知のものだった新型インフルエンザも、河岡教授らの研究の結果、実体が解明されつつある。喜田教授は、起こりうるあらゆる新型インフルエンザに備え、インフルエンザを根本から克服しようとしている。
 正しい知識をもとに、必要以上に不安をあおらず、安心もせず、冷静にインフルエンザをコントロールする。研究者の高い志に支えられたそんな姿勢こそが、新型インフルエンザの脅威からわれわれの身を守ってくれるのだ。

将来出現する新型インフルエンザに対する先回り対策を!
インフルエンザウイルスライブラリー
喜田教授らは、すでに全144通りのインフルエンザウイルスライブラリーを作製している。これを活用し、将来起こりうる抗原変異も予測して、変異ウイルスにも対応できる「抗体ライブラリー」を構築する。作出した抗体の治療への効果などを動物実験により確認し、ライブラリーを創薬に応用するための基盤の確立を目指す。

TEXT:十枝慶二/PHOTO:大沼寛行/今井 卓