Topics01記憶を正確に保存する神経細胞の仕組みを解明“シナプスタグ仮説”の実証

記憶は神経細胞のシナプスでの、情報伝達効率の変化により保存される。
しかし、その仕組みは未解明であり、「シナプスタグ仮説」と呼ばれる仮説が長い間、提唱されてきた。
今回、記憶にかかわるたんぱく質の挙動を解析した結果、この仮説が正しいことが明らかになった。

シナプスでの情報伝達効率の変化で記憶が長期間保存される

シナプスタグ仮説の立証によりPTSD治療を前進させたい。

井ノ口馨(いのくち・かおる)
名古屋大学農学部卒業。コロンビア大学医学部研究員、ハワードヒューズ医学研究所リサーチアソシエート、ニューヨーク州立精神病研究所、三菱化学生命科学研究所を経て現在、富山大学大学院医学薬学研究部生化学講座教授。2001年より横浜国立大学大学院環境情報研究院客員教授を兼務。

 大きな自然災害に見舞われるなどの極度の恐怖体験を経験すると、それがトラウマ記憶となり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症する。PTSDになると、原因となった恐怖体験と、似た体験との間に不必要な記憶の連合が起こることがある。
 例えば、電車事故でPTSDになってしまった場合、電車に乗ることに恐怖を感じるだけでなく、電車と同様の公共の乗り物であるバスに乗ることにも恐怖を感じてしまうのだ。ときにはまったく関係のない記憶との無意味な連合も起こってしまい、日常生活にさまざまな支障をきたすことになる。
 しかし、記憶のメカニズムが十分に明らかになっていないため、記憶の不必要な連合に原因する、PTSDの根治療法はいまだ開発されていない。富山大学の井ノ口馨教授は、記憶を保存する神経細胞の仕組みを解明することにより、PTSDなどの精神疾患の根治療法の開発に取り組んできた。井ノ口教授がこう説明する。
 「わたしたちの脳を構成する神経細胞には、シナプスと呼ばれる部位があり、数十ナノメートルの間隔で接し合っています。そこで神経伝達物質のやり取りがなされて、情報伝達を行っています。そこでは、ある出来事を経験して、その記憶が形成される際に、シナプスでの情報伝達の効率が変化することが明らかになっていますが、ならば、その情報伝達効率を変化させる仕組みを解明すれば、記憶のメカニズムの謎に迫れるのではないかと考えました」
 1つの神経細胞には数万個のシナプスがあるが、さまざまな記憶ごとに、特定のシナプスの情報伝達効率が変化することで、個別の回路が構築され、記憶が保持されると考えられてきた。このシナプスでの情報伝達効率を制御できれば、記憶をコントロールできることにつながり、PTSDの根治療法への可能性が広がる。
 そこで、井ノ口教授が注目したのが、シナプスでの長期間にわたる情報伝達効率変化の仕組みとして提唱されていた「シナプスタグ仮説」だった。
 ある出来事を経験すると、シナプスによる情報伝達効率が変化して、記憶が形成されるのだが、その変化は数分から数時間で消失してしまう(短期的記憶)。それに対して、強烈な経験をすると、情報伝達効率の変化は数日にわたって維持され、長期記憶が形成される。これは、記憶関連たんぱく質と呼ばれるものが、特定のシナプスに到達し、そのシナプスの情報伝達効率を長期的に変化させることで、長く、正確な記憶を保存することができるようになったためだ。その、特定のシナプスに到達する際に、カギとなるのがシナプスタグという存在だと考えられていた。


神経細胞全体に運ばれてもはたらくのは特定のシナプスだけ

 記憶関連たんぱく質は、神経細胞で合成されたあと、すべてのシナプスへと運ばれる。すべてのシナプスに運ばれるにもかかわらず、特定のシナプスでだけ、記憶関連たんぱく質がはたらくのはなぜなのか? これを説明するために提唱されたのが「シナプスタグ仮説」で、ある目印(タグ)が付けられたシナプスに運ばれたときだけ、記憶関連たんぱく質が作用するのではないかと考えられてきた。しかし、この仮説を実証する報告はなく、タグの存在も不明のままだった。
 井ノ口教授がこう続ける。
 「記憶関連たんぱく質を郵便物に例えてみましょう。東京の郵便局(細胞体)から稚内の郵便局(特定のシナプス)に、ある郵便物を配達しようとします。ところが、記憶関連たんぱく質は全国の郵便局にいっせいに送られてしまう。ただし、シナプスタグという目印が稚内の郵便局にだけあれば、ここだけで郵便物を受け取れ、開封できるのです。稚内でだけ郵便物を受け取るためには、シナプスタグがはたらくことによって、記憶関連たんぱく質を特定のスパイン(樹状突起にある瘤状の突起)に取り込まなければなりません。この仕組みを解明し、シナプスタグ仮説を証明しようと考えました」
 井ノ口教授は、まず、研究グループが発見したVesl-1Sと呼ばれる記憶関連たんぱく質の遺伝子に、観察のための緑色蛍光たんぱく質(GFP)を融合し、ラットの海馬の神経細胞に導入した。
 この融合たんぱく質=GFP-Vesl-1Sの挙動を観察して、シナプスとスパインの活動の関連性を確かめられれば、シナプスタグ仮説の証明につなげることができる。

ドーム型フォトバイオリアクター 準備中の新しい実験室
神経細胞には数万個ものシナプスがあり、ここで情報伝達物質のやり取りを行い、記憶それぞれに個別の回路網を構成する。ある記憶に対してシナプスが使用されると、そのシナプスにあるスパインに“シナプスタグ”が付加され、これが記憶関連物質を留め置くようにはたらき、情報伝達効率が変化。その記憶が長期間保存されるようになる。 蛍光たんぱく質GFPは、特定のたんぱく質と融合して蛍光目印となり、そのたんぱく質の挙動を観察することができる。このGFPと、記憶関連たんぱく質Vesl-1Sを融合させたたんぱく質=「GFP-Vesl-1S」が合成される遺伝子をラットの海馬の神経細胞に導入した。導入前では蛍光(写真では黒く表示)は見られないが、導入後80分たつとGFP-Vesl-1Sがすべての樹状突起に輸送されていることがわかる。

ドーム型フォトバイオリアクター 実証1で樹状突起全体に輸送されることが示された記憶関連たんぱく質が、特定のスパインに選択的に取り込まれている様子。シナプスの活動によって、特定のスパインだけで記憶関連たんぱく質が増加することが確認された。活動していないシナプス(左図下3枚)では、スパインでの蛍光は観察されず、記憶関連たんぱく質は増加していないことがわかる。

シナプスダグを解明し、連合記憶にかかわる疾患の治療法を

 GFP-Vesl-1Sの挙動を観察したところ、記憶関連たんぱく質が、神経細胞の樹状突起全体に広まっていくことが明らかになった(実証1)。
 さらに、GFP-Vesl-1Sが特定のスパインに取り込まれるかどうかを観察すると、シナプスの活動によって、GFP-Vesl-1Sが増加していることがわかった。シナプスが活動していないところでは、GFP-Vesl-1Sは樹状突起に留まったままだが、シナプスが活動した箇所では、そのシナプスに接するスパインにだけ選択的に取り込まれている様子が見える(実証2)。
 これらの観察により、シナプスタグ仮説が正しいということが立証できた。また、シナプスタグの実体は、樹状突起からスパインへのたんぱく質の取り込みの制御であることも判明した。
 シナプスタグについて、井ノ口教授は「スパインの入口に設けられた“ゲート”のようなものなのではないか」と推論している。今後の研究の発展によって、さらに、シナプスタグのはたらきが解明されていくことに期待が高まる。
 樹状突起からスパインへの記憶関連たんぱく質の取り込みの制御機構が解明され、その制御にかかわる物質の開発が進めば、PTSDの原因となったトラウマ記憶と、それとは無関係な記憶との連合を解く、PTSDの根治療法への可能性が見出せるだろう。また、脳卒中後の回復過程では、シナプスの情報伝達の改善が起こることが明らかになっているので、リハビリテーションの効率向上への貢献も考えられる。
 今回の研究成果により、シナプスタグ仮説が実証されたことを大きなステップにして、連合記憶にかかわる精神疾患、神経疾患の治療に、道が拓けてゆくことを期待したい。

TEXT:斉藤勝司/PHOTO:大沼寛行