JST News Vol.5/No.3
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科学技術振興機構の最近のニュースから……
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シンポジウム「CREST12 ー科学技術イノベーションを目指すCRESTの挑戦ー」より
5月27日、東京国際フォーラムにおいて、CRESTがスタートして12年を記念したシンポジウム「CREST12−科学技術イノベーションを目指すCRESTの挑戦−」が開催された。その様子を会場からリポートする。
Topics 01
「デジタルメディア」研究領域が“予感研究所2”を開催
Topics02
「産学共同シーズイノベーション化事業」の事業例より
粟辻安浩 京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科電子システム工学部門准教授
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髭づらの大男、母親になる

コンラート・ローレンツ [1973年ノーベル医学・生理学賞]

 1940年代のある日、オーストリアはウィーンの近郊で孵卵器の前にしゃがみこんでいる髭づらの大男がいた。孵卵器のなかでは今しもハイイロガンの一つの卵がかえるところ。男はそのどんな小さな動きも見逃すまいと、じっと眼をこらして観察しているのである。
 ヒナは1時間かけて内側から卵の殻を破り、さらに数時間もかけて殻から何とか這い出して、髭の男の前に立った。さて、そこで何が起こったか? 男の報告を聞こう。
 「長い間、じつに長い間、ガンの子は私をみつめていた。私がちょっと動いてなにかしゃべったとたん、この緊張は瞬時にしてくずれ、ちっぽけなガンは私にあいさつをはじめた。……彼女の黒い瞳でじっとみつめられたとき逃げ出さなかったばっかりに、不用意にふたことみことなにか口を開いて彼女の最初のあいさつを解発してしまったばっかりに、私がどれほど重い義務をしょいこんでしまったか」*
 そう、ヒナは髭の男を自分の母親だと思い込み、ピープ、ピープと声も嗄れんばかりになきながら、彼の後を追いかけ始めたのだった。
 これが「刷り込み」(imprinting)という現象である。この語は有名で、日常会話でも「条件反射」といった程度の意味で使われる。だが本来の意味はちがう。刷り込みとはガンの子の例のように、「特定の短期間におけるやり直しのきかない学習」であり、しかも「生得的なもののように、長期間にわたって忘れられることのない認知」なのである。
 この現象の発見者が、“髭づらの男”コンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz:1903〜89)。ノーベル賞の候補にもなった医学者を父に持ち、自身も医学を学んだが、生来の動物好きの夢断ちがたく、動物とともに暮らすことを選んだこのオーストリア人は、動物行動学(ethology)の確立者として、1973年ノーベル医学・生理学賞を、同僚のニコ・ティンバーゲン(1907〜88)、カール・フォン・フリッシュ(1886〜1982)とともに受賞した。
 じつは生物学の究極の課題である「進化」について、現在の学界はローレンツの考えには否定的である。ローレンツは動物の行動はすべからく「種の維持のため」と考えたが、今では「個体のため(自分自身の遺伝的基盤を守るため)」という考えが主流である。学説は変わる。しかし、実験や数式でなく徹底的な観察に基づいて文章で表現するというローレンツの学問のスタイルの魅力は変わらない。『ソロモンの指環』『攻撃』『人イヌにあう』などの著作の含蓄と滋味、そして人なつっこさは、まったく独自の高みにある。
(文・西田節夫)
*『ソロモンの指環』(原著1949年)K.ローレンツ(日高敏隆訳)早川書房 1998より引用