Close up 「免疫難病・感染症等の先進医療技術」研究領域の研究成果から 免疫は、ミステリアス!
H1N1インフルエンザウイルス

Part2 インフルエンザウイルスの謎を追う-東京大学医科学研究所 河岡義裕教授

全世界で何度も猛威を振るい、恐怖をもたらしたインフルエンザウイルス。その謎を解明しようという意欲が、画期的な新しい技術を生んだ。

河岡義裕(かわおか・よしひろ)
北海道大学獣医学部卒業。鳥取大学農学部助手、アメリカで大学や研究所の研究員等を歴任の後、東京大学医科学研究所ウイルス感染分野教授、同感染症国際研究センター長。「免疫難病・感染症等の先進医療技術」研究領域では、「感染症の制御」の一課題として、インフルエンザウイルスの感染過程の解明に取り組む。

「ならず者」のインフルエンザウイルスの謎に迫る画期的な新技術。

 坂口教授が保安官であるリンパ球の異常な行動の謎を追っているとすると、ならず者である病原体の謎を追っているのが東京大学医科学研究所の河岡義裕教授だ。とくにターゲットとしているのがインフルエンザウイルス。ならず者の中でも古くから毎年人々を襲い、恐れられている存在だ。
 河岡教授の研究成果の1つに、インフルエンザウイルスを人工的に合成するリバース・ジェネティクス法の開発がある。ウイルスがなぜ人に感染し、殺傷力を持つのかを調べるには、ウイルスの一部を変え、その影響をみることなどが重要だ。人工的にウイルスを合成できれば、そうした操作が簡単に行えるため、何人もの研究者がこのテーマに取り組んでいた。河岡教授は、もともとこのテーマに積極的に取り組んでいるわけではなかった。しかし、アメリカのウイスコンシン大学で研究しているころ、ふとしたきっかけからその画期的な方法の開発に成功する。
 「研究室に、ウイルスRNAの人工合成にかかわる技術を研究したことのあるドイツ人の女性研究者がいたのです。たまたまその技術を知り、いけそうだとひらめきました」
 インフルエンザウイルスは8種類のRNAと9種類のたんぱく質を持っている。これらをすべて1つの細胞内で合成できればインフルエンザウイルスを作り出せると予測ができるが、そう簡単にはいかないと考えられていた。このドイツ人研究者がRNAのうち1種類なら比較的容易に合成する方法を身につけていることに興味を持った河岡教授は、研究室のメンバーで手分けをして8種類のRNAを作るための8種類のプラスミドと、9種類のたんぱく質を作るための9種類のプラスミドを開発。どのプラスミドをどの割合で入れればよいのか見当もつかなかったが、試しに1つの細胞の中にすべてを1つずつ入れてみたところ、合成に成功したのだ。半信半疑で何度も試したが、結果は同じ。こうして、世界中を驚かせた画期的な新技術が開発された。
 「だれもが難しいと考えていたし、僕自身も簡単にはいかないだろうと思っていたので、この結果にはびっくりしました」
 この技術はさっそくさまざまな形で応用された。20世紀前半に猛威をふるったスペイン風邪のウイルスを遺伝情報をもとに合成することに成功。大きなニュースとなった鳥インフルエンザのウイルスも、この方法を用いて作られている。


革新的な技術の開発も、謎を解明するための手段に過ぎない。

人はなぜ、鳥インフルエンザに感染しにくいのか?

河岡教授の研究室
リバース・ジェネティクス法によって、インフルエンザウイルスを合成する研究員。各自が本当に知りたい謎をテーマに決め、研究に打ち込んでいる。

 最先端のウイルス研究になくてはならない技術を開発したことは、河岡教授にとってもちろん重要な出来事だ。しかし、それは本来の研究テーマではない。
 「リバース・ジェネティクス法はあくまでも技術。大切なのはその技術を使って何を明らかにするかです」
 少年時代から生き物を飼うのが好きだった河岡教授は、動物のことをもっと知りたいという気持ちから北海道大学獣医学部に入学。実習を通じて興味をもった微生物学研究室に進み、修士課程修了後、鳥取大学農学部獣医学科の助手となった。主に研究していたのは、ヒトに伝染すると腎臓の機能を侵すレプトスピラ、食中毒の原因となるエルシニア・エンテロコリチカといった細菌だったが、所属研究室が野鳥のインフルエンザウイルスの研究を行っていたので、野鳥のフンを集めたりしていた。そして、アメリカに留学したのを機に、本格的にインフルエンザウイルスの謎に取り組むことになった。
 河岡教授の根本にあるのは、「なぜ、動物は微生物に感染すると死ぬのか」というテーマだ。インフルエンザは、古来たびたび世界的な大流行を引き起こし、多くの人命を奪ってきた。ウイルスに感染すると、動物の体内で何が起こるのだろうか。研究を進めるうちに、さまざまな謎と出合う。
 インフルエンザは動物の種類によって、それぞれに感染しやすいように姿を変える。たとえば人間は、ヒトインフルエンザには感染するが、鳥インフルエンザにはめったにかからない。その理由を探るため、鳥インフルエンザウイルスに感染した人を調査したところ、ノドの液からはヒトインフルエンザウイルスがたくさん検出されたが、鳥インフルエンザウイルスは検出されず、気管の奥に詰まっていた痰からのみ検出された。また、鳥インフルエンザに感染すると、肺炎などは起こすが鼻水などの症状は出ないこともわかった。この事実から、河岡教授は、鳥インフルエンザウイルスが人に感染する場合は、肺の奥にまで入り込んで初めて増殖すると考えた。これなら、咳や唾とともに広がっていく可能性は低いから、めったに感染しないことの説明がつく。この推理に基づいて研究を進めたところ、人の平均体温が37℃に対し鳥は41℃で、鳥インフルエンザウイルスはこの温度が最も活発になるように変化しているから、人に感染した場合、より体内の温度が高いところまで到達しなければ増殖しないという理由も明らかになった。
 「そんなふうに、疑問を解決するアイデアがひらめいて確かめたところ、そのとおりだとわかったときは、興奮しますね」
 謎の解決に対する欲求は、インフルエンザウイルス以外にも広がっている。たとえばエボラウイルスを題材にした小説「ホットゾーン」を読み、そこで描写されているサルの症状が、鳥インフルエンザに感染した鳥の症状とよく似ていることに興味を持つ。早速ウイルスの遺伝子を入手して研究を始め、興味深い事実を知った。
 「症状は同じに見えても、それを起こす仕組みが違うんですよ」
 インフルエンザウイルスの遺伝子は、先ほど触れたように動物の種類に合わせて感染しやすく、症状を引き起こしやすいように姿を変えていく。ところがエボラウイルスがさまざまな症状を引き起こすのは、ウイルス自体が変化したわけではない。もともと人間に感染しやすい性質を持っているのだ。また、エボラウイルスには人の免疫応答を抑えるたんぱく質を持っていることもわかった。


根本にあるのは、「なぜ、動物は微生物に感染すると死ぬのか」という謎。

インフルエンザウイルスの構造
A型インフルエンザウイルスは9種類のたんぱく質から構成され、そのうち3種類は表面に存在する。スパイクのように突き出ているのはHAとNAの2種類。

 河岡教授が開発したリバース・ジェネティクス法というインフルエンザウイルスを人工的に作り出す画期的な技術は、新たなワクチンの開発などにつながり、インフルエンザの脅威から私たちを守ってくれる。そして、インフルエンザの恐ろしさやワクチンの効果を熟知している河岡教授は、決して科学的とはいえない理由からタミフルが使用できなくなったり、子どもたちの集団接種が廃止されてしまう現状に憤りを感じてもいる。しかし河岡教授の研究の原動力は、世の中の役に立ちたいということではないと言う。
 「もちろん、役に立てばいいなという気持ちはあります。でも、根本にあるのは、やはり、『動物がウイルスに感染するとなぜ死ぬのか』を知りたいという思いです」
 インフルエンザウイルスに関してもまだ解明されていない謎がたくさんある。たとえば冬にインフルエンザが流行るのはなぜか。当然のことと受け止めがちだが、その理由ははっきりとはわかっていない。
 河岡教授は、自身の研究室の学生たちに、何を研究するかという指示はしていないという。各人がおもしろいと思うテーマを追求していくのが本来の姿だと思うからだ。
 だれかに言われたからでも、だれかのためでもなく、謎を解明したいという研究者の強い思い。それこそが、わたしたちをミステリアスな免疫の世界のさらに奥へと導いてくれる。

TEXT:十枝慶二/PHOTO:大沼寛行、松崎泰也(ミューモ)


戻る 目次へ 次へ

JST News 発行日/平成20年1月
編集発行/独立行政法人 科学技術振興機構 広報・ポータル部広報課
〒102-8666 東京都千代田区四番町5-3 サイエンスプラザ
電話/03-5214-8404 FAX/03-5214-8432
E-mail/ ホームページ/http://www.jst.go.jp
編集長/福島三喜子(JST) 編集・制作/株式会社トライベッカ
デザイン/中井俊明 印刷/株式会社テンプリント