生命にアプローチする化学。
医薬品やプラスチックなどの有機化合物は、原料を有機溶媒に溶かして合成するのが当たり前。
そんな常識を破り、水の中での有機合成を実現させた小林修教授。その成果は環境にやさしい化学である
「グリーンケミストリー」の重要な技術として評価されているが、彼のもう1つの夢は生命の謎に迫ることにあった。

「水の中での有機合成」とグリーンケミストリー。

Profile 小林修
1959年生まれ。83年に東京大学理学部化学科を卒業し、同大学院に進学。87年、東京理科大学理学部応用化学科助手。98年、東大大学院薬学系研究科教授、2007年4月より同大学院理学系研究科教授。2003年よりERATO研究総括。

 P.04で紹介した金触媒による環境調和型アルコール酸化反応の開発は、戦略的創造研究推進事業総括実施型研究(ERATO)「小林高機能性反応場プロジェクト」を構成する3グループの1つ、「固定化触媒グループ」の最新成果だ。ここでは、その研究総括の小林修教授自身がグループリーダーを兼任する「水反応場グループ」の研究について紹介しよう。
 グループ名の「水反応場」とはなんだろうか? それについては順を追って明らかにしていくことにして、まずは、小林教授の有機合成化学に対するこんな想いに耳を傾けて欲しい。
 「自分の手で新しい物質をフラスコの中で作り出せる面白さにひかれて、有機合成化学の道に入りました。ですが、一方で私たちの体の中では、化学者の到底手に負えないようなすごい反応が行われていることがずっと気になっていました。よく知られているように私たちの体の3分の2は水で、生体内の反応も水の中で起きています。ですから、こうした反応をモデルとするような、水の中の有機合成がフラスコ内でも考えられるはずだと思っていました」
 生命が行う有機合成をお手本にしたい。小林教授の「水の中の有機合成」というテーマはそこから生まれた。そして、このテーマは、化学反応の起こる場を精密にデザインする環境調和型、すなわち環境にやさしい化学「グリーンケミストリー」を目指す小林プロジェクトの目的にピタリと当てはまるのだ。
 私たちの暮らしを支える医薬品や農薬、化学繊維、プラスチックなどの化学製品は有機化合物が中心で、これらは原料を有機溶媒に溶かして合成するのが常識。しかし、大量の使用済み溶媒が廃棄物となる問題があった。有機溶媒は環境負荷が高く、人体に有害で、引火・爆発といったリスクを抱えることも少なくない。そこで、より安全な溶媒に代替する研究がグリーンケミストリーの重要な分野として世界的に行われてきている。そして、無害・無毒な水は代替溶媒として理想的というわけだ。

常識を覆す水で分解しないルイス酸触媒。

 とはいえ、有機合成に有機溶媒が使用されてきたのにはそれなりの訳がある。物質が水になじむ性質を親水性、なじまない性質を疎水性というが、多くの原料は疎水性で、水には溶けないが、同じ疎水性の性質をもつ有機溶媒になら溶ける。そして、原料が溶媒によく溶けることで、各原料の分子同士が効率よく出合い、化学反応を進行させることができるのだ。
 水を溶媒とするうえでやっかいなのはそれだけではない。「日頃、水は酸でもアルカリでもない中性的なものと思われていますが、化学反応においては酸・アルカリの性質は相対的なものです。ですから、水は相手によっては強い酸にもアルカリにもなり、合成を助けるはずの触媒が水と反応して分解してしまったりするのです」
 有機合成によく使われるルイス酸触媒という触媒も水に対して不安定とされ、使う場合はフラスコを完全に乾燥させ、中の空気も不活性ガスで置換して、湿気を完全に除去することが当たり前とされてきた。
 ところが、1991年のことだ。ルイス酸触媒について文献を調べていた小林教授の目に、偶然、希土類トリフラートというルイス酸を水溶液中で作っている20年前の特許が止まった。「これなら、水を含む溶媒でも使える。そう思って試してみたら、ちゃんと触媒として機能することがわかりました」。この再発見を機に、小林教授はさまざまなルイス酸触媒について、水で分解するという常識を覆していった。
 「水の中の有機合成」を阻む問題の1つは解決された。残る課題は原料が水に溶けないということだが、これは、界面活性剤の機能を加えた新しいルイス酸触媒を開発することで解決。ルイス酸-界面活性剤一体型触媒、通称「ラスク」(LASC)と言う。

水の中にミクロな反応場を作るラスク。

 界面活性剤、すなわち石けんが油汚れを洗い落とせるのは、石けん分子が疎水性の部分と親水性の部分をもっているからだ。水中で油汚れと出合うと、石けん分子は疎水性の部分を油汚れに向けて取り囲み、表面に親水性の部分が並ぶ小さなカプセル(コロイド粒子)を形成する。こうして油汚れは水中に拡散するコロイド粒子となって洗い流される。同じように、ラスクを水に混ぜ、あとから有機合成の原料をそこに入れると、ラスクが原料を取り囲んでコロイド粒子を作る(下の写真参照)。
 この直径1ミクロンほどのコロイド粒子の中に水はなく、原料と触媒のラスク分子があるだけだ。そこは、閉じ込められた原料分子同士と触媒が効率よく出合って化学反応を起こす場所になっている。要するに、水の中にミクロな有機合成の反応場がたくさん浮かんでいる状態が作られる。これがグループ名の由来だ。
 ラスクによって実現した「水の中の有機合成」は、もちろん有機溶媒の廃棄物を出さず、引火・爆発の危険性もないが、それだけではなく、合成後にラスクを回収して、何度でも再利用できる。しかも、コロイド粒子内での反応は効率がいいため、反応が有機溶媒を使う場合より130倍も速いという長所をもつ。
 「ラスクは10年ほど前に発明したもので、すでに試薬メーカーから販売されています。現在、医薬品の合成などに応用する試みが行われているようです。私たちはラスクの原理をルイス酸触媒だけでなく、さまざまな種類の触媒に応用して、最終的にはあらゆる有機合成を水の中で行えるようにしたいと考えています」
 ところで、小林教授のもともとの動機だった生命が行う有機合成はどうなったのか。「生体内の有機合成で触媒として働いているのは酵素です。まだその機構は十分に解明されていませんが、酵素も水の中ですぐれた反応場を作っています。ラスクの作るコロイド粒子もそういう点では似ていると言えます」

01 フラスコに水を入れる


フラスコにまず水を入れる。通常なら、フラスコを完全に乾燥させ、中の空気も不活性ガスで置換して湿気を除くのだが、そうした手間は不要だ。
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02 LASC(ラスク)を水に混ぜる


次にラスクを入れる。すると白濁するが、ラスクは水に溶けないのでしばらくするとフラスコの底に沈殿してしまう。

分子モデル図
ルイス酸-界面活性剤一体型触媒 LASC
青色が触媒機能を担う金属原子で親水性、灰色の炭素原子と白色の水素原子が作る3本の足が疎水性の部分。
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03 合成する原料を入れて攪拌


合成する原料を入れてかき混ぜる。再び全体が白く濁り、今度は安定した乳濁液となる。水の中に無数のコロイド粒子が浮いた状態だ。

コロイド粒子の光学顕微鏡写真
ラスクの作るコロイド粒子の大きさは約1ミクロン。合成の原料となる分子に比べると数百倍は大きく、内側は化学反応の場所としては十分な広さだ。
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04 遠心分離器にかける


遠心分離器にかけるだけで水、触媒(ラスク)、合成物質に分離できるので、廃棄物を出さない。ラスクは再利用が可能だ。

コロイド粒子のモデル図
水色のマッチ棒状がラスクの疎水性の部分、茶色い玉が触媒機能部分。ラスクは球状に並んでコロイド粒子を形成するだけでなく、その内側にもたくさん入り込んでいて、触媒として働く。

水から生命の複雑な機構が見えてくる。

 最近、小林教授はラスクを使って水の中で不斉合成を行うことにも成功した。右手と左手のように、その立体構造が互いに鏡に写したような関係にあり、重なり合わない2種類の分子が存在する場合、両者の化学的性質にほとんど違いはないので、通常の合成では、右手系と左手系の両方の分子が混ざり合った状態で生成する。これに対して、どちらか一方だけを作り分けるのが不斉合成だ。
 生体内で見つかるアミノ酸はほとんどが左手系であり、薬が体に及ぼす作用は左手系か右手系かで大きく異なる。だから、不斉合成ができることは医薬品を作るうえでとても重要なポイントだ。そして、小林教授の「フラスコの中の有機合成」がまた1つ生体内の合成に近づいたとも言える。
 「有機合成化学の立場から、生命自体の理解に貢献できないかということを考えています。現在、酵素の機能を解明するために、酵素の活性部位に着目した研究が盛んに行われていますが、酵素という巨大な分子のごく一部分だけを調べていても、なかなか全容の解明に至るのは難しいと思われます。それに対して、酵素が働く溶媒である水から生命にアプローチしていけば、今まで見えてこなかったことが明らかになってくるのではないか、と私たちは考えています」
 すでに生物系の研究者との共同研究を始めているという。有機合成の常識を塗り替えた小林教授が生命にどんな新しい光を投げかけるのか、楽しみだ。

TEXT:黒田達明/PHOTO:松崎泰也(ミューモ)


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JST News 発行日/平成19年8月
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