研究主題「神経遺伝子」の構想


 我々人間の神経系は150億もの神経細胞から成り立っている。これらの神経細胞は、世代交代により維持される他の組織、器官の細胞と異なり、個体発生の初期までに増殖し分化を終えると個体が死ぬまで増殖することなく維持されている。このことが精神活動(思考、記憶、認知、感性など)という後天的な機能を支える裏付けとなっている。  
 しかし、こうした神経系にも様々な病的変化が生じ、正常な機能が障害を受けることがある神経細胞そのものが死にいたる場合は、神経細胞が再生能を持たない故に、機能の回復は非常に困難である。神経疾患にはこのような(脳)神経細胞死が多く見られ、そのなかでも細胞死の原因が分からないものは「変性」と呼ばれている。  
 1990年代に入って勃興してきた国際的なゲノム解析に触発されて、神経変性疾患の病因を遺伝子の機能異常として捉え、原因遺伝子の単離と同定が積極的に試みられてきた。今日まで、わずか5年の間に40の変性疾患について、それらの病因に関わっていると思われる遺伝子が単離されてきた。しかし、これらの病因候補遺伝子の機能、変異の原因、疾患との関わりなど、遺伝子の本態解析はほとんど手つかずの情況にある。
 なかでも、一連の神経・筋変性疾患(筋緊張性ジストロフィー、ハンチントン病 、脊髄小脳変性症など)において、三塩基重複配列の増幅を引き起こす新規の遺伝子変異が見つかった今日までに明らかにされた遺伝病に見られる遺伝子変異は点突然変異、欠損、挿入、重複変異あるいは染色体転座などで、これらの変異は後代へ安定に伝達される。ところが、これらの脳神経・筋変性疾患について見つけられた変異は、三塩基(CXG)配列の増幅を引き起こし、世代を経る度に増加の一途をたどる動的な変異として挙動することが明らかになった(ダイナミックミューテーション)。この変異は、生物学者がかつて経験したことがなかった遺伝子変異である。ダイナミックミューテーションは脳神経と神経・筋肉の変性疾患に限られていることから、この変異の解明は選択的で進行性の脳神経細胞死の本態を分子レベルで明らかにできる重要な手掛かりをあたえてくれる。さらに、神経細胞の発生、分化、恒常性、情報伝達などの神経系機能の解析の要になると思われる。
 一方、運動神経変性疾患の一つである脊髄性筋萎縮症の病因候補遺伝子を単離したところ、この疾患にはダイナミックミューテーションは一切関係していないことが判明した。しかし驚くことに、この遺伝子には細胞のプログラム死(アポトーシス)の制御に関わる機能が推定された。このことは神経細胞の変性(死)にアポトーシスが関わっていることを初めて示すものである。したがって、本遺伝子の本態解明は神経細胞の恒常性を知る重要な手掛かりを与えてくれる。
 本研究では神経細胞の特徴である恒常性の保証に関わっている遺伝子、蛋白質、酵素などを単離し、これらの機能を再構成実験系と生体内系で解析することにより、選択的な神経細胞死(神経変性)の本態の解明を目指す。この神経細胞の死のメカニズムを明らかにすることこそ神経細胞を生存させ、機能を維持させる方法の発見につながる。具体的には、次の事項について研究する。

(1) 選択的な神経細胞の死が基本になつているハンチントン病、脊髄小脳変性症、筋緊張性ジストロフィーなどの神経変性疾患の病因候補遺伝子に共通してみられるダイナミックミューテーションのメカニズムと病態との相関について明らかにすることを目指す。
(2) 脊髄性筋萎縮症の病因候補遺伝子に推定されているアポトーシス抑制機能の発現機構と神経細胞死におけるアポトーシスの関与について明らかにすることを目指す。

 これらの研究により、神経変性疾患(ハンチントン病、パーキンソン病、脊髄小脳変性症、脊髄性筋萎縮症など)に係わる遺伝的機構の解明ができれば、これら遺伝病の治療に役立つばかりでなく、老化やがん化、老年性痴呆のメカニズムなどの理解にも重要な示唆を与えることが期待される。


 用語の解説

1. ゲノム
すべての生物はいきるために必要な情報を細胞の中に持っている。その情報に従って形態が形成され、生命活動が維持される。このように個体の設計図である遺伝情報のすべてをゲノムという。ヒトのような高等生物では、ゲノムは染色体として観察される。

2. ダイナミックミューテーション(Dynamic Mutation)
染色体には、長い二重らせんのひものようになったDNAが高密度で押し込まれている。このDNAのひもは、アデニン(A)、チミン(T)、シトシン(C)、グアニン(G)という四種類の核酸塩基が三個一組で意味を持つ言葉のように並んでいる。 ダイナミックミューテーションは、CXG(XはGまたはC,T,A)の配列からなる三塩基重複配列の増加を引き起こし、世代を経るたびに増加の一途をたどる変異。


3. アポトーシス(Apoptosis)
一般的に細胞死の形態については、ネクローシスかあるいはアポトーシスであるとの考えが強まっている。ネクローシスは重度の火傷や凍傷、打撲、切傷、高線量の放射線被爆、毒性化学物質との接触などの際に見られる急激で無秩序な細胞破壊を特徴とし、放出された細胞内物質が周辺細胞や組織に影響して炎症や障害を引き起こす。一方、アポトーシスは細胞本来の情報としてプログラムされている自己破壊のプロセスであると考えられている。自己破壊プログラムは、ウイルスや紫外線などの化学物質がシグナルとなって起動する。アポトーシスを起こした細胞は、核(染色体DNA)の分節化と細胞質の分断小胞化を経て崩壊する。放出された分節小胞(細胞内物質)は周辺の細胞に取り込まれて再利用される。この自己破壊は周辺の細胞や組織を巻き込むことなく進行することから、アポトーシスは不都合もしくは不要になった細胞を積極的に除くために獲得した秩序だった細胞死の形態と言える。





This page updated on May 14, 1999

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