独立行政法人科学技術振興機構〔理事長:沖村憲樹〕と国立精神神経センター神経研究所の診断研究部〔中村俊部長〕とは、脳のサイレントシナプス(存在はしているが機能していないシナプス)が脳に由来する神経栄養因子(Brain-Derived Neurotrophic Factor:BDNF)によって活性化されることを明らかにした。これは、中村グループと科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業チーム型研究の「回路網形成における神経活動の関与メカニズム」(研究代表者:津本忠治 大阪大学大学院医学系研究科教授)との共同研究による成果で、米国科学アカデミー紀要 PNAS ( Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America ) に掲載される(2003年10月28日)。
幼弱な動物の中枢神経系に存在するサイレントシナプスが活性化され、機能を発現するに至るまでには、後天的な環境因子が重要な役割を果たすと考えられているが、その機構は明らかにされていなかった。今回、BDNFが神経の活動と協調しあうことによってサイレント・シナプスを活性化することを見出した。サイレントシナプスが活性化すると、神経活動を受け取り、更に他の神経細胞に信号を発信できるようになる。
この発見によって、脳科学の見地から、感受性の高い時期に質の高い適切な学習・教育を行うべきという従来の現象論を物質的な裏付けをもって理解することが可能となった。このように、脳の発達過程の解明の一助になると同時に、今後研究が進めば、人の幼児期の教育はもとより、生涯学習のありかたの理解にまでも繋がることが期待される。 |
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I.サイレントシナプスの機構 |
我々の脳にはシナプスと呼ばれる脳内の神経細胞の間を結びつける部位があり、この特殊な構造を介して、ニューロン間の情報伝達が行われている。シナプス自身の発達は、"遺伝的素因"と"環境因子"の二つによって定められて来る。即ち、シナプスは遺伝子によって決められた通りに生後単調に発達していくのではなく、外的刺激が質的あるいは量的に有るか否かで大きく変わってくる。しかも、感受性の高い時期(臨界期)に格段の変化をとげ、この臨界期に獲得された変化は、生涯にわたり安定して定着する。このような現象は経験的に知られて来たが、それを説明する科学的な根拠の詳細はよく分かっていない。
"遺伝子"によって形成される神経回路網は甚だ大雑把なものであり、成長と共に"環境"に適応した神経回路網に再形成されると考えられている。再形成に際しては、活動をしない神経細胞―いわば無駄な神経細胞―が排除されているとされる。中でも、グルタミン酸を伝達物質とする興奮性神経のシナプスには、神経活動を伝達できる活性型のシナプスに加えて、シナプスの形態を保持するものの神経活動を伝達する機能を持たないシナプス、すなわち"サイレントシナプス"が存在すると提唱されてきた。
シナプスがサイレント(非活動的)であることに関しては、二通りの可能性が議論されている。すなわち、一つは(i)シナプスの前部の機能が欠損していること、いま一つは(ii)シナプス後部の機能が不十分であること--である。現在では、(ii)の可能性の方が有力である。この場合には、シナプス後部を構成する2種類のグルタミン酸受容体(NMDA受容体とAMPA受容体)の関係から次のように推測される。生後間もない幼弱な脳ではNMDA受容体の発現自体は認められる。しかしながら、NMDA受容体は充分には機能せず、神経伝達物質が放出されても、受け手のNMDA受容体がキャッチし転送してくれないため、次の神経に情報が伝達されない。(このNMDA受容体の活動性が強く抑制されているのは、共存するマグネシウムによるといわれている。)
ところが、脳が成熟するに従い、NMDA受容体の近傍にAMPA受容体が出現し、放出された神経伝達物質に先ずこのAMPA受容体が反応し、その興奮がNMDA受容体の抑制を取り除くようになる。その結果、神経活動は次の細胞に伝わるようになる。すなわち活性型のシナプスとなる訳である。このような機構で、サイレントシナプスに機能が発現するのではないか、と言われてきた。 |
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II.サイレントシナプスの活性型への変換に係わるBDNF関与の裏付け ~BDNFノックアウトマウスの実験から~ |
今回我々はBDNFノックアウトマウスを用いて、サイレントシナプスの活性型シナプスへの変換を検証することとした。BDNFノックアウトマウスの脳の視床-大脳皮質スライスを標本とし、その中から、興奮性ニューロンのサイレントシナプスを調べてみた。その結果、以下のような知見が得られた。
(i) | 野生型標本に比して、この標本にはサイレントシナプスが豊富に存在している。 |
(ii) | 神経伝達物質放出と神経細胞の興奮を起こす刺激を加えても活性型シナプスに変換できない。 |
(iii) | BDNFの添加によりAMPA受容体を発現する部分的な活性型シナプスに変換される。 |
(iv) | (ii)及び(iii)を同時に加えることによって完全な活性型シナプスとなる。 |
(v) | AMPA受容体の発現には細胞内カルシウムの上昇が必要であり、シナプス膜上で安定化されることが必要である。 |
以上の結果から、シナプスの成熟には神経の興奮に加えてBDNFが大きな関わりを持つことが明らかと成った。これまで、BDNFはサイレントシナプスの活性化という観点からの研究はなされていなかった。また、発達期のサイレントシナプスが活性型のシナプスに変換される過程についても盛んに研究されてきたが、BDNFがサイレントシナプスの活性化に関与しているという直接的な証拠は得られていなかった。しかし、今回の研究成果から初めて、BDNFが発達期のシナプス形成にも重要な役割を果たしているということが明らかとなった。 |
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今後の課題:神経活動とBDNFとの相乗効果が発揮される仕組みを解明することが今後の重要な課題である。この点についても、現時点で、シナプス後部のカルシウム濃度の上昇が重要であること、AMPA受容体の細胞内輸送の制御に問題を解く鍵があることは掴んでいる。
また、脳には興奮性の細胞と抑制性の細胞との両タイプの細胞が存在するが、興奮性のシナプスはどちらの細胞ともシナプスを形成する。しかし、その過程はBDNFによって異なった様式で制御されていることも示唆されているため、特定の回路がどの程度興奮し、逆に抑制されるかというトータルにみた回路の出力調節についても今後の研究の進展が期待されている。 |
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III.研究成果の社会的意義 ~生涯教育への適用の可能性 |
脳の発達の仕組みを明らかにすることは、幼児期・若年期における学習方法や老年期における脳機能の維持等の育児や学習指導にもつながる可能性を秘めている。脳科学という基礎科学を教育という社会科学に適用することで全く新しい分野が融合して形成することが期待される。
特に、近年の少子化により、子供の健やかな身体的、心理的発達に対して社会の関心は高まっている。また、子供をとりまく社会経済的環境の整備は遅れており、心理的な不安定性、脆弱性を抱えたまま成長している子供たちも少なからず存在する。学級崩壊も看過できぬ社会問題となっている。従って、社会経済的環境の整備と共に、脳科学の成果を広く教育や文化政策に還元し、子供の健やかな成長、成人の再教育などのためのオープンなフォーラム活動を発展させることが急務である。
このような社会情勢に照らし合わせると、脳の発達研究は社会的にも極めて重要な意義をもっている。とくに、個人の遺伝的素因と環境因子は特定の高感受性期、すなわち、臨界期にダイナミックな相互作用を行い、その帰結はその個人の生涯にわたって深い影響を及ぼす。今回、我々は、脳の興奮性シナプスの発達が神経細胞の電気的活動(環境因子はこの活動に翻訳されて脳に伝えられている)と脳に由来する神経栄養因子(遺伝的素因であり、そのタンパク質の発現レベルの調節は分裂病の発症とも関連があることが最近報告されている)の協調的な働きで起こっていることを見い出した。この結果は、臨界期における適切な働きかけの重要さを示すものである。
また、動物実験から、餌と水だけで育てた場合に比べ、豊富な遊具のある環境で育てた場合の方が脳細胞の新生が増加することが明らかになった。この種の実験を重ねていくことで、より効果的に教育するには、あるいはどのようなストレスを避けるべきか、といったことを具体的に明らかに出来る可能性がある。さらに、成体の脳にも多能性幹細胞が存在し適切な刺激で神経細胞が新生し、シナプスを形成することが明らかにされつつあるため、発達期のシナプス形成の研究から得られた知見を生涯教育に適用してゆく可能性も生まれている。 |
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<図> |
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<用語解説> |
BDNF: | Brain-Derived Neurotrophic Factor。脳由来神経栄養因子。 |
受容体: | 特定の物質を特異的に受け取る「手」の働きをするタンパク質分子。 |
NMDA受容体及びAMPA受容体: | それぞれグルタミン酸受容体の一つ。 |
NMDA受容体: | N-メチルD-アスパラギン酸受容体。記憶と学習等に関与している脳内神経伝達物質であるグルタミン酸の受容体の1つ。 |
臨界期: | 感受性期とも言い、特定の経験に対し特に敏感になる時期。 |
シナプス: | 神経と神経の接合点で10~20nmの隙間があり、神経伝達物質によって信号が伝えられる。 |
シナプスの可塑性: | シナプスは固定されたものではなく、神経の興奮性に合わせて変化することから記憶・学習の根本にあるものと考えられている。 |
神経栄養因子: | 神経細胞に対して生存、維持、発達、病的状態の防御などの作用を及ぼす蛋白質を総称したもの。 |
神経軸索: | 神経の細胞体から出る長い突起でその末端は次の神経にシナプスを作り興奮を伝える。 |
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「補足説明」 |
<発表論文題名> |
Brain-derived neurotrophic factor-dependent unmasking of “silent” synapses in the developing mouse barrel cortex
doi :10.1073/pnas.2131948100
脳由来神経栄養因子に依存したサイレントシナプスの活性化 |
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本件問い合わせ先: |
中村 俊(なかむら しゅん)
国立精神神経センター神経研究所
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津本 忠治(つもと ただはる)
大阪大学大学院医学系研究科
未来医療開発専攻 組織再生医学講座神経統合機能分野
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森本 茂雄(もりもとしげお)
科学技術振興機構 研究推進部 研究第一課
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