科学技術振興機構報 第188号

平成17年7月19日

東京都千代田区四番町5−3
科学技術振興機構(JST)
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URL http://www.jst.go.jp

小脳の抑制性神経細胞の誕生機構の解明

〜天寿を全うする小脳の無いマウスから得られたもの〜


 JST(理事長:沖村 憲樹)は、成体において小脳の無い(小脳皮質が全て失われた)突然変異体マウスを創生し、その解析から小脳を構成する興奮性および抑制性神経細胞のうち、抑制性神経細胞の誕生を司る遺伝子を発見した。このマウスはよろめく、頻繁に転倒するなど小脳失調性症状を示す。
 小脳は数種類の興奮性神経細胞と抑制性神経細胞とから構成されているが、それぞれが誕生するしくみについてはほとんど解っていない。今回の発見は、小脳皮質を完全に失いながらも生存し、寿命を全うする世界で初めての突然変異体マウスを得たことから始まった。この突然変異の原因遺伝子として、すい臓の発生で重要な働きをしていることが知られているPtf1a*1を同定した。小脳の神経細胞を生み出す領域である脳室帯*2において、この遺伝子を発現する神経前駆細胞(神経細胞を生み出す親細胞)から抑制性神経細胞が、発現しない神経前駆細胞からは興奮性神経細胞が生み出されるなど重要な知見が得られ、Ptf1a遺伝子が小脳の抑制性神経細胞の誕生を司っていることが明らかになった。 本研究は、小脳における抑制性神経細胞の誕生のしくみを初めて明らかにしたものであるが、この遺伝子の異常によって糖尿病と運動失調をきたす病気も最近報告されていることから、今回の成果がヒトの病気の理解にもつながると期待される。また、小脳の大部分を占める皮質が完全に無くなっても生存は可能であること、すなわち、小脳そのものは生存には必要とされないということが示唆されたこ<とも重要な発見である。
 この成果は戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけタイプ)「タイムシグナルと制御」研究領域(研究総括:永井克孝)における研究テーマ「Rho類似G蛋白質の神経回路網形成に果たす役割」の研究者 星野幹雄(京都大学・医学研究科・腫瘍生物学講座(鍋島陽一教授) 助手)等によるもので、平成17年7月21日付け(米国東部時間)の米国学術雑誌「ニューロン(Neuron)」で発表される。

【研究成果の概要】

 背景

 脳内には数千種類の多様な神経細胞があるが、それらは大きく二つのグループに分類できる。神経活動を活発にする興奮性神経細胞とそれを抑制する抑制性神経細胞である。この両者がバランスよくネットワークを形成することにより、高度な脳機能が可能となると考えられている。中枢神経系では、興奮性神経細胞と抑制性神経細胞の主たる神経伝達物質はそれぞれグルタミン酸とガンマ(γ)‐アミノ酪酸(GABA)であり、それぞれ、グルタミン酸作動性神経細胞およびGABA作動性神経細胞と呼ばれている。
 小脳は運動の制御にかかわる脳領域であり、その大部分を占める外側の小脳皮質と、内側にある白質および深部小脳核から構成されている。小脳の興奮性神経細胞は顆粒細胞および大型小脳核神経細胞、抑制性神経細胞としてはプルキンエ細胞、ゴルジ細胞、バスケット細胞、星状細胞、小型小脳核神経細胞があり(図2参照)、顆粒細胞を除く神経細胞はすべて小脳の脳室帯という領域から生まれてくる。小脳が重要な脳領域であるにも関わらず、小脳脳室帯からこれらの神経細胞が生み出されるしくみについては、今までほとんど何もわかっていなかった。ましてや、今回の発見のように、抑制性神経細胞にグルーピングされる全ての種類の神経細胞の誕生に同一の遺伝子が関与しているとは想像もされていなかった。

 研究の経緯(図1参照

 トランスジェニックマウス*3とは、外来遺伝子をマウス個体内で発現させるように遺伝子操作を施したマウスであるが、時折、マウス自身の遺伝子が偶然に破壊され、突然変異体が現れることがある。本研究は、運動失調様症状を示す突然変異体マウスを得られたことから始まった。そのマウスを調べたところ、小脳皮質を完全に失いながらも成体まで生存するという世界で初めてのマウスであることがわかり、このマウスは「小脳が無い」という意味から、cerebelless(セレベレス)と名付けられた。このマウスにおいて破壊された遺伝子が小脳の形成に重要な役割を果たしていることが予想されたため、このマウスの研究を精力的に行うこととなった。

 今回の論文の概要(図2参照

 セレベレスでは、小脳の脳室帯の神経前駆細胞から、興奮性神経細胞(グルタミン酸作動性神経細胞)は正常に生み出されるが、抑制性神経細胞(GABA作動性神経細胞)はほとんど生み出されないことが明らかになった。連鎖解析法*4という遺伝学的手法を用いて、セレベレスで破壊されている遺伝子がPtf1a遺伝子であることを突き止めた。Ptf1aはすい臓の形成に重要な働きを持っていることが知られている遺伝子である。セレベレスではすい臓での発現(働き)は正常であるが、発生途上の小脳における発現(働き)は失われていた。さらに細胞系譜解析*5により、小脳の様々な神経細胞が生み出される脳室帯には、独立した2種類の神経前駆細胞(神経細胞を生み出す親細胞)が存在することが明らかになった。 すなわち、Ptf1aを発現する神経前駆細胞と発現しない神経前駆細胞であり、前者からは小脳における全ての種類の抑制性性神経細胞が、後者からは興奮性神経細胞が生み出される。セレベレスでは、Ptf1a遺伝子の働きが神経前駆細胞で失われており、抑制性神経細胞が生み出されなかったことから、Ptf1a遺伝子が小脳の抑制性神経細胞の産生に必須の役割を果たしていることが明らかになった。さらに、興奮性神経細胞のみを生み出している大脳皮質の脳室帯の神経前駆細胞にPtf1a遺伝子を強制的に導入すると、その領域から本来生み出されるはずがない抑制性神経細胞が多く生み出された。このことから、Ptf1aが神経前駆細胞から生み出された神経細胞に対して、抑制性神経細胞の性質を付与するような働きがあることがわかり、小脳における全ての抑制性神経細胞の誕生を司る遺伝子機構を初めて明らかにした。

 今後期待できる成果

 「背景」でも触れたように、小脳には、様々な種類の神経細胞があるが、それらがいかなる遺伝子・分子機構で誕生してくるかについては、ほとんど解っていなかった。今回の研究により、小脳の全ての種類の抑制性神経細胞の誕生にPtf1a遺伝子が関与していることが示されたが、これは今まで全く手がかりの無かったこの分野の研究においてブレークスルーとなるものである。すなわち、今回の研究を契機として、今後は小脳における各種神経細胞の発生機構の研究が盛んになることが期待される。また、本研究は、単なる小脳における研究に留まらず、脳全体において、数千種類もの神経細胞がその誕生過程においていかに多様性を獲得していくのかという普遍的な問題にも多くの示唆を与えるものである。
 セレベレスは小脳皮質を完全に失いながらも成体まで成長し、寿命を全うする世界で初めての突然変異体マウスである。今までにも小脳皮質の無い突然変異体マウスはいくつか報告されてはいるが、小脳以外の領域にも異常が現れているため、いずれも発生段階の早い時点で死に至ってしまう。今回の発見は、動物の生存には小脳そのものは必ずしも必要でないことを物語っており、今後大きな議論を呼ぶものと思われる。また、このセレベレスは実験材料として利用され行動や脳活動などの解析により、小脳本来が果たしている役割の解明に大きく貢献できるものと考えられる。さらに小脳は運動機能の調節に関与する脳領域であることは長い間信じられてきたが、最近ではより高度な脳機能への関与も示唆されている。セレベレスを用いた今後の研究により、その問題が明らかにされていくと期待される。
 昨年暮れ、ヒトPtf1a遺伝子の異常によって、重度の糖尿病と運動失調をきたす病気が報告された(Nature genetics、36巻、1301-1305ページ、2004年)。今回の発見は、そのヒトの病気の理解や診断、ひいては治療にもつながる可能性がある。

■【用語解説】
■図1.セレベレスは小脳皮質を完全に失う。
■図2.今回の研究成果

【論文名】

Ptf1a, a bHLH Transcriptional Gene, Defines GABAergic Neuronal Fates in Cerebellum”
(bHLH型の転写因子をコードするPtf1a遺伝子は小脳のGABA作動性神経細胞の運命を決定する)
doi :10.1016/j.neuron.2005.06.007

【概要】

戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけ)
「タイムシグナルと制御」研究領域 (研究総括:永井克孝)

研究課題名: Rho類似G蛋白質の神経回路網形成に果たす役割
研究者: 星野 幹雄(京都大学大学院・医学研究科・腫瘍生物学講座 助手)
研究実施場所: 京都大学大学院・医学研究科
研究実施期間: 平成13年12月〜17年3月

【研究者プロフィール(星野 幹雄)】

1989年 新潟大学医学部医学科卒業
1993年 新潟大学大学院医学研究科博士課程修了 博士(医学)取得
1993年 国立精神・神経センター・神経研究所 博士研究員
1995年 米国・スタンフォード大学医学部 博士研究員
1997年 国立精神・神経センター・神経研究所 博士研究員
1997年 大阪大学・細胞成体工学センター 助手
1998年 京都大学大学院・医学研究科 助手

【問い合わせ先】

星野 幹雄 (ホシノ ミキオ)
 京都大学・医学研究科・腫瘍生物学講座 助手
 〒606-8501 京都市左京区吉田近衛町
 TEL: 075-753-4426 FAX: 075-753-4676
 E-mail:

白木澤 佳子(シロキザワ ヨシコ)
 独立行政法人 科学技術振興機構 戦略的創造事業本部
 研究推進部第二課
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