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科学技術振興機構報 第1011号

平成26年3月4日

東京都千代田区四番町5番地3
科学技術振興機構(JST)

高分子鎖1本の超精密機械特性測定に成功
DNAなどの高分子鎖を用いた電子素子開発などに貢献

<ポイント>

JST 課題達成型基礎研究の一環として、バーゼル大学 物理学科の川井 茂樹 シニアサイエンティストらは、1本の高分子鎖を金の基板表面より引き上げるときの機械特性を世界で初めて明らかにしました。

DNAやたんぱく質などの高分子鎖は、生体において重要な役割を果たすだけでなく、将来分子電子デバイスの素子として注目されています。そのため、高分子鎖の機能を調べる研究が盛んに行われており、例えば高分子間の結合力などの機械的な特性は、原子間力顕微鏡注1)の探針で高分子鎖を基板表面から引っ張り上げる方法で測定しています。しかし、これまでの方法は狙った1本の高分子鎖を測定するのではなく、無作為に基板表面から拾い上げています。このため、探針がどの高分子鎖のどの位置についたのか、また、高分子鎖が途中で切れずに引き上げられたのか詳細には分かりませんでした。また、引き上げ時の力の経時変化も測定しておらず、その機械的挙動は不明でした。

これまでは、測定用に独立した1本の高分子鎖を基板表面に準備することが難しく、さらに高分子鎖の特定の位置(端)を探針で引き上げることが困難でした。今回研究グループは、高分子鎖を基板表面上で生成し、熱運動がほぼない極低温(マイナス268度)下にすることで、高分子鎖の形態を精密に観察することに成功しました。さらに、新たな経時測定技術を開発し、原子間力顕微鏡の探針で狙った高分子鎖(有機化合物)を基板表面から引き上げ、基板からの離脱現象を解明しました。その結果、ナノメートル領域では、吸着が支配的で、高分子鎖内の各分子が規則的に離脱することが分かりました。また表面と高分子鎖の間では摩擦が少ないことも分かりました。これは、例えば机の上に張った細長い粘着テープをはがす動作でなく、柔らかく重い糸を引っ張り上げたときの動作に相当します。

今後、開発した装置を使うことでDNAやたんぱく質などのより複雑な生体高分子鎖のメカニズムがさらに解明されることが期待されます。

本研究は、ドイツ マックス・プランク協会 フリッツ・ハーバー研究所のグリル教授、ドイツ フンボルト大学のヘクト教授、スペイン アドバンスナノサイエンス・マドリード研究所のネッコ博士らと共同で行ったものです。

研究成果は、2014年3月3日(米国時間)の週に米国科学誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」のオンライン速報版で公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。

戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけ)

研究領域 「分子技術と新機能創出」
(研究総括:加藤 隆史 東京大学 大学院工学系研究科 教授)
研究課題名 「分子化学構造および機械電気特性の超高分解能測定の実現」
研究者 川井 茂樹(バーゼル大学 物理学科 シニアサイエンティスト)
研究期間 平成25年10月〜平成29年3月

<研究の背景と経緯>

DNAやたんぱく質など生体高分子鎖の機械特性測定は、原子間力顕微鏡を用い高分子鎖を基板表面から引っ張り上げることで行われています。これらの研究により、高分子鎖内の結合の破断力や塊となっている部分がほどける力などが分かってきています。また、力学的特性が化学反応に影響を与えることなども分かってきています。このような高分子鎖の形態変化は生体内で常に行われており、高分子鎖の機械特性を測る研究は、生体のメカニズムを理解するために非常に重要です。また将来、生体高分子鎖を使った分子電子デバイスの作成に向けて有益な知見をもたらすと期待されています。

しかし、これまでの方法では、測定用に高分子鎖1本1本を独立した状態で生成して基板に固定化することが難しく、さらに狙った高分子鎖の特定の位置(端)を探針で引き上げることが困難でした。また、高分子鎖を引き上げる際に発生する探針の引っ張り力の微小変動を経時測定する手法もありませんでした。

そのため、狙った1本の高分子鎖を測定するのではなく、高分子鎖を無作為に基板表面から拾い上げ、数千数万回以上の測定から得られるヒストグラムを統計的に解析することが主でした。このような統計的解析では、個々の事象は平均化されてしまうため、1本の高分子鎖を引っ張り上げたときの詳細な過程を検出することはもちろんのこと、その個々の挙動を解析することができませんでした。

<研究の内容>

今回研究グループは、極低温超高真空中で動作する走査型トンネル顕微鏡・原子間力顕微鏡システムを用いて、狙った1本のフルオレン注2)高分子鎖を基板表面上より引っ張り上げ、その機械特性観察を実現しました(図1図2)。フルオレン高分子鎖は、フルオレン分子ユニットが連続でつながっており、金の基板表面上で化学反応により生成しました(図4)。

基板上にある高分子鎖を動かすときには、高分子鎖が基板表面上を滑るときの摩擦力と、高分子鎖と基板表面金属との吸着力が働くと考えられます。高分子鎖を基板表面から離脱させるときは、この力が複合的に働くと想定されますが、これまで、高分子鎖が基板表面から離脱するメカニズムは全く分かっていませんでした。このメカニズムを解明するためには、1本の高分子鎖を特定し、状態を観測しながらその場で測定する必要があります。また、たった1本のナノメートルサイズの高分子鎖の動きを観測することは、電気信号に雑音が入らないように最新の技術を要求されます。さらに、1本の高分子鎖を分離して表面上に生成する必要があります。

今回、高分子鎖を基板表面上で生成しその場観測が可能な状態を作り出し、熱運動がほぼない極低温(マイナス268度)下であらかじめ形態を観察した後、原子間力顕微鏡の探針を用いて最長80ナノメートルの高分子鎖を基板表面から引き上げ、その離脱現象を解明しました。

観察結果と理論計算から、基板上を滑る高分子鎖と基板である金の表面間に働く摩擦がほとんどないこと、さらにナノメートル領域では分子ユニットと基板表面間の吸着力が大きく、高分子鎖内の各フルオレン分子ユニットが1つずつ段階的に離脱することを明らかにしました。

測定は高分子鎖を引っ張り上げるときの力を電気信号に変えて見ていますが、分子ユニットが基板表面に吸着しているときと離脱直後では引っ張り上げる力が大きく変化し電気信号の周波数変化として観測されます(図3)。高分子鎖の各フルオレン分子ユニットが基板から離脱するたびにこの電気信号変化が観測され、高分子鎖が完全に表面から離脱されるまでの引っ張り上げた長さにかかわらず、測定した電気信号はほぼ一定で変動を繰り返します(図5)。

高分子鎖が基板表面より離脱する場所がほぼ探針の真下であることから、この振幅変動は高分子鎖内の各フルオレン分子ユニットが1個ずつ段階的に離脱していることを表し、また、引っ張り上げた距離に相当する長さを、高分子鎖が基板表面を滑っていることを表しています。

この滑るときの摩擦力を解明するために、摩擦現象をモデル化するのに用いられるFrenkel−Kontorovaモデル注3)を拡張し本実験系に当てはめ、フルオレン分子ユニットが基板から離脱するときの力やエネルギーを見積もることに成功しました。まず、フルオレン分子ユニットの周期と基板の金原子の距離とが倍数関係にないことを明らかにしました。これは、フルオレン分子ユニットと金原子の重なりが密着ではなく、いわば浮いた状態で所々点接触していると考えられます。このような状態では、摩擦となる横方向への吸着力が弱くなります(図2紫丸の位置参照)。そして、実際に計算された摩擦力も大変小さく、また測定された電気信号の振幅変動にはフルオレン分子ユニットが基板から離れる際の吸着力変動のみが観測されたことから、基板上を滑る高分子鎖と基板である金の表面間に働く摩擦がほとんどないことを証明しました。このことは、高分子鎖の分子ユニット間隔と、基板を構成する金属原子の間隔を適切に設定することで摩擦の大きさを制御できることを示し、表面で損失する摩擦エネルギーを原子レベルの構造で制御できるモデルケースです。

このような1本の高分子鎖の超精密測定は、世界で初めて成功したものです。

<今後の展開>

1本の高分子鎖の詳細な機械特性測定が可能になることで、これまで統計的に解析していた複雑な高分子鎖の機械特性を単一の測定で行うことが可能となりました。高分子鎖の形態変化は、生体内で常に行われており、このような研究は生体のメカニズムを理解するのに重要で、今回の成果により、複雑で多機能な生体分子鎖の詳細なメカニズム解明が進むことが期待されます。また、高分子鎖を用いた分子電子デバイス研究では、分子のような柔らかい構造を持つ場合、摩擦の有無が電極の接触に与える影響や、圧力などの機械特性が電気特性に与える影響が大きな検討要素となっています。今回の高分子鎖1本の超精密機械特性測定方法の開発と測定装置の構築は、その解明に向けた有力な武器として働き、新しい分子電子デバイスの展開につながることが期待されます。

<参考図>

図1

図1 原子間力顕微鏡の探針を用いた高分子鎖の引っ張り試験

金の基板上に生成した高分子鎖を原子間力顕微鏡の探針を垂直方向に動かすことにより引っ張り上げ、そのダイナミクスを検出します(黄色丸:金原子、黒白丸の鎖:高分子鎖)。

図2

図2 原子間力顕微鏡の探針を用いた高分子鎖の引っ張り試験(モデル図)

高分子鎖内の分子ユニットはそれぞれ結合しており(バネ定数k)、また高分子鎖と探針も結合しています(バネ定数Ktip)。各分子ユニットは基板表面上にそれぞれ異なる力で表面に吸着しています(紫丸、U)。振幅方向は吸着力の大きさを表します。また、表面から離脱するところの分子ユニットはさらに異なる力で表面に吸着しています(U)。原子間力顕微鏡の探針を引き上げることにより、高分子鎖を基板表面から引っ張り上げると、その吸着力は図3で示す原理で電気信号の周波数変動として検出することができます。

図3

図3 フルオレン高分子鎖の引っ張り上げ時の挙動

原子間力顕微鏡の探針を高分子鎖の片方に近づけ、分子操作により引き上げます。その最中に、探針が取り付けてある片持ち梁をその共振周波数で振動させます。分子を引き上げる力に応じて片持ち梁の堅さが変わるため、共振周波数が変化します。検出した周波数変動から、高分子鎖が表面から離脱するときの吸着力を検出します。

ここでは縦軸が周波数であるため、周波数変動は電気信号の振幅として観測されます。また、図5(上)より、引っ張り上げの挙動がテープをはがす場合と異なることが分かります。この動作は、机の上に張った細長い粘着テープをはがすときの動作ではなく、柔らかく重い糸を引っ張り上げたときの動作に相当します。

図4

図4 金の基板上に生成した高分子鎖。サイズ176nm四方

金の基板の構造に沿ってフルオレン高分子鎖(白い筋の部分)が配列しているのが観察されます。鎖の長さは10〜100ナノメートル程度です。

図5

図5上 マニピュレーション前(左)と後(右)の基板表面写真
図5下 引き上げているときに検出された電気信号

 右上の図から、高分子鎖が表面より離脱する場所がほぼ探針の真下であることが分かります。横軸は引き上げ距離を表わしていますが、この横軸上での変動周期長はフルオレンの各分子ユニット間隔の長さに一致しています。

<用語解説>

注1)原子間力顕微鏡
走査型プローブ顕微鏡の一種であり、非常に先鋭な探針と試料表面間に働く原子間力を用いて、試料表面の凹凸像を得る装置。
注2)フルオレン
有機化合物であり、芳香族の炭化水素分子(C1310)。
注3)Frenkel−Kontorovaモデル
摩擦現象を表すモデル。比較的に簡単な数式でありながら、さまざまな低次元の非線形固体物理を解析することができる。

<論文タイトル>

“Quantifying the atomic-level mechanics of single long physisorbed molecular chains”
(原子レベルでの基板に物理吸着した1本の長い高分子鎖のメカニクス測定)
doi: 10.1073/pnas.1319938111

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>

川井 茂樹(カワイ シゲキ)
バーゼル大学 物理学科 シニアサイエンティスト
Department of Physics, University of Basel, Klingelbergstrasse 82 CH-4056 Basel, Switzerland
Tel:+41 (0)61-267-30-17 Fax:+41 (0)61-267-30-13
E-mail:

<JSTの事業に関すること>

松尾 浩司(マツオ コウジ)、古川 雅士(フルカワ マサシ)、平澤 和夫(ヒラサワ カズオ)
科学技術振興機構 戦略研究推進部 グリーンイノベーション・グループ
〒102-0076 東京都千代田区五番町7 K’s五番町
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<報道担当>

科学技術振興機構 広報課
〒102-8666 東京都千代田区四番町5番地3
Tel:03-5214-8404 Fax:03-5214-8432

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