国際共同研究「分子転写プロジェクト」


代表研究者 新海 征治 (九州大学大学院工学研究院教授)
共同研究相手機関 トウエンテ大学
研究実施期間 1997年1月~2001年12月

1. 研究の概要
 原子および分子の識別は、分子集合体から生命が誕生する段階で生命体が獲得した機能である。この識別能力のお陰で生命体は自己保存、自己複製など生命を維持する上で不可欠の現象を滞りなく遂行できる。この概念に触発されて誕生したのが分子認識化学である。即ち、「人間の知恵」を最大限に集積化することにより、自然界が示す高効率、高選択的な原子や分子の識別系を人工的に再構築する試みである。徒来の分子認識化学における典型的な研究手法は、識別対象となるゲスト原子(又は分子)と相補的な形を持つホスト分子を設計し、有機合成化学的な技術に頼って合成していた。この「ホスト・ゲスト化学」においては、多点相互作用が起こるようにホスト分子を設計する必要に追られるため、目的とする機能を発現する複雑な構造のホスト分子を合成するには、しばしば困鞋が生じていた。
 本研究構想における基本戦略は、この従来型の研究指針に対する逆転構想から生まれたものである。即ち、識別対象となるゲスト原子(又は分子)を「鋳型」として使用し、ホスト分子を構成する分子断片を多点相互作用させてマトリックス上に事前組織化する。この精密配列した分子組線をマトリックスに固定化する。
 このようにして作製された分子組織体は、ゲストと相補的な構造を所有し、鋳型として用いたゲストに対する分子記憶を留めているはずである。則ち、困難な有機合成化学の技術を駆使することなく、分子の自己組職能力を利用して、しかも極めて普遍性に富んだ方法で、精密分子識別能を持つホスト分子を構築することができる。本方法論が確立すれば、いかなるサイズ、形の識別対象に対してもユニバーサルに対応することが可能であり、分子認識化学に画期的な大展開をもたらすことが期待きれる。
2. 研究体制と参加研究者
○研究体制
精密記憶グループ(久留米市合川町/久留米リサーチセンタービル)
機能表面グループ(久留米市合川町/久留米リサーチセンタービル)

○参加研究者 (*研究顧問、**客員研究員含む)
  代表研究者研究員技術員合計
日本118 423
オランダ15   
3. 研究成果の概要
○特許出願件数
  特 許
日本側国内26
外国0
共同国内0
外国0

○外部発表論文
  論文総説・書籍学会発表
日本側国内 0440
外国40016
共同国内 000
外国7  7*
 *日本-オランダ ジョイントワークショップ主催等

○発表主要論文誌
Journal of the Chem. Society/The Journal of Organic Chemistry/Tetrahedron

主な研究の成果
〔均一系〕
(1) 可溶性巨大分子の表面を用いる分子記憶材料の創製
 芳香族ボロン酸類は種々の糖分子と環状ボロン酸エステルを形成することから、糖分子レセプターとして注目されている。現在までに、糖分子と相補的な構造を有する種々の芳香族ボロン酸誘導体が設計され、糖分子認識への応用が展開されてきた。しかしながら、複雑なレセプターを合成するには、特殊な合成技術や多段階の精密有機合成が必須となり、更に種々の糖分子についてその都度分子設計を行うのは非効率的である。そこで、従来の研究戦略の逆転発想を基に、認識対象となる糖分子を鋳型として用いる糖分子レセプターの簡便で普遍的な構築法の開発を計画した。
 実際には、[60]フラーレンを糖分子レセプターの基盤として選択し、糖-ボロン酸 1:2 錯体との分子内二重付加反応を行うことで鋳型糖と相補的な構造を有するフラーレンーボロン酸二重付加体を創製した。本二重付加反応の付加様式は鋳型糖により制御され、位置及び立体選択的に対応するフラーレン二重付加体を与えた。更に、設計された二重付加体が鋳型糖と選択的に再結合し、鋳型糖に対して分子記憶を留めていることが判明した。
 本研究の成果は、[60]フラーレンが分子記憶材料の基盤として有用であることを明示している。現在、本手法がステロイドを含む各種ジオール類の記憶材料創製にも適応可能であることが判明しつつある。
(2) 光化学反応を利用したゲスト分子の不斉情報の記憶
 1,1'-ビナフチルには、2つのナフタレン環が右回りと左回りにねじれた光学異性体が存在する。このねじれの反転は、熱的には進行せず、光照射により励起されることにより初めて起こることが知られている。分子中に他の不斉要素が存在しない場合、光定常状態において両光学異性体の存在比は1:1となるが(光ラセミ化)、不斉を有する置換基を導入することでその不斉に応じて1,1'-ビナフチルの一方の光学異性体を、光照射により優先的に生成せしめること(光不斉誘起)が期待できる。そこで、糖質と錯体を形成するボロン酸基を有する1,1'-ビナフチル誘導体(ラセミ混合物)を合成し糖質の存在下で光照射を行ったところ、添加した糖質の不斉を反映した光不斉誘起が起こることが見出された。
 本研究は、ホスト-ゲスト相互作用を利用して光不斉誘起を実現した最初の例であり、誘起された1,1'-ビナフチルの不斉は糖質を除去しても保持されることより、光化学反応およびホスト-ゲスト化学を利用した分子メモリーの構築に関する新たな手法をもたらすものである。
〔一次元系〕
(3) 一次元記憶媒体を利用した分子認識システム
 生体の遺伝子情報を記憶・転写していくメカニズムは、DNAの2重螺旋構造とそれを横成する4つの塩基対によって説明される。DNAの構造を支配している因子は、疎水性相互作用と結びついた水素結合と高分子系特有の協同現象である。他方、ある種の多糖の中でもこの2つの因子によって高次構造を形成しているものがある。我々は、この共通性を利用して多糖によるDNAの分子認識ができないかと考え、鋭意研究を進めたところ、シゾフィラン(SPG)と呼ばれる一群の多糖が、モデルDNAのpoly(C)やpoly(A)と相互作用し、化学量論的な高分子錯体を形成することを世界で初めて見いだした。DNAと相互作用する物質の研究は次世代の産業である遺伝子工学の基礎として、非ウイルス性ベクターや人工的な配列認識に重要である。今までに知られているそのような材料は、窒素原子や芳香族を含む合成物が多く、必ずしも生体に対して安全とは言えない。今回我々が見出した材料は基本的にはグルコースからなり、原理的にきわめて安全である。
 今後は、この多糖・DNA高分子錯体の性質を詳細に調べると共に、塩基配列の認織可能性を追求していきたい。また、SPGは単一錯DNAと特異的に錯体を形成することにより、SPGを化学的に修飾して、狂牛病等のプリオン(RNAウイルス)に対する核酸切断剤としての可能性も探っていきたい。
(4) 糖質によるポリアミノ酸の構造制御
 ポリペプチドの高次構造を制御し、機能を発現しようという試みは多くなされているが、生体中のたんばく質と同様、水中において、糖質をシグナルとして利用し、機能発現にむすびつけるポリペプチドの研究は、そのポリペプチドと糖質間の水素結合がほとんど減殺されてしまうため、ほとんど報告例がない。そこで、新海研究グループの開発した、糖質インターフェースであるボロン酸と蛍光官能基をポリアミノ酸に組み込むことにより、水中で糖質を認識、その際に生じるアミノ酸の構造変化をCDスペクトル及び、蛍光スペクトルの変化として捉えることのできるポリアミノ酸誘導体の開発し、種々の糖における測定データを蓄積した。このポリアミノ酸は、認識した糖構造より、特有の高次構造を誘起され、特徴的な蛍光を発する。新規な糖類の化学的センサーへの応用が期待できるとともに、生体内でのたんばく質の特異的な機能発現(シグナル→高次構造変化→機能発現の一連の過程)についての知見を得るための一手法を確立した点で非常に重要な成果と考えている。
〔二次元系〕
(5) メゾスコピック2次元集合体の構築
 有機分子は通常ナノメータ(10-9m)スケールのオブジェクトであるが、その分子を集合させミリメータ(10-3m)オーダーの組織体を構築することは、外的手段をもってしては非常な困難を伴う。そこで、分子自身の持つ自己会合性を利用して、このメゾスコピックスケールにおける組織化が試みられているが、2次元での報告例はほとんどない。今回、我々は、1ナノメータの厚さで、幅が60ナノメータ、長さが0.1ミリメータ以上の2次元繊維状組織体を構築することに成功した。それは、従来の考えでは成膜性に悪いとされていた固化特性を逆に活かし、界面で分子が擬集した大きさ30ナノメータの単分子膜クラスターを構成ユニットとする、(分子でなく)クラスターの組織化を実現できたためである。これらのクラスター集合体は表面圧を生ぜず液面上では準安定状態にあり、さらに、3次元コロイド凝集で知られているSchulze-Hardy則を満たすことが判明し、これまでに報告された例のない2次元の物質状態である可能性もでできた。また、まず分子が凝集してクラスターを形成し、それらが1次元的に配列して長いひもになり、さらに、二本のひもが接合して一本の繊維になる階層的組織化の機構も解ってきた。
〔三次元系〕
(6) ゲル化を鍵とするフラーレン集合体の創製
 フラーレン分子は非常に凝集力の強い化合物であるため、配向制御されたフラーレン集合体の構築は困難であり、特にキラル配向制御の報告は皆無に等しいが現状である。一方、低分子有機ゲルは、構成単位の低分子ゲル化剤が一定の配向性を示しながら自己会合した新しい超分子構造の一つである。例えば、コレステロール誘導体は分子間スタッキングにより容易に自己会合し有機ゲルを与える。特出する点は、コレステロール分子固有の不斉が会合形態に反映され、得られる有機ゲルがマクロな不斉環境を提供することである。すなわち、コレステロールをベースとした光学活性な分子集合体が形成される。上記の背景を基に、キラル配向制御されたフラーレン集合体の構築を目的とし、コレステロールの3位に[60]フラーレン部位を導入した誘導体のゲル化特性及びキラル会合特性を検討した。種々の溶媒についてゲル化試験を行い、本誘導体がジクロロメタンをゲル化することが判明した。ゲル状態の吸収スペクトルはフラーレン部位の会合に基づくスペクトルのブロードニングを示し、更にCD スペクトルからは、ゾル状態で認められなかった顕著なコットン効果が観察された。これらの結果は、集合形態において[60]フラーレン部位がキラルに配向していることを示唆している。
 本研究の成果は、キラルに組織化されたフラーレン集合体の初めての例であり、マクロな不斉環境におけるフラーレン誘導体の新しい機能発現の可能性が期待できる。
(7) 有機ゲルを用いる記憶、認識材料
 糖構造に由来する種々のゲル化材を調製し、状態(溶液、ゲル、結晶)によりスペクトルの変化する系を見出した。花の色の多様性は、色素の多様性によってではなく、その配糖体の多様性によって出現している。この自然現象を参考に今後は、ゲル化能と糖構造との関係を明らかにすると共に、スペクトル変化の大きな系を、記憶、認織材料へ展開する予定である。
(8) 糖構造に由来する分子集合体の制御
 糖構造の多様性は、我々にとって、一見するとその扱いが困難なことばかりに思われるが、逆に考えると、限られた材料からバラエティに富んだ機能を得ることが可能であり非常に有益である。すでに生体内においては、糖構造のわずかな違いの認識が生体維持の中で正確に行われ、かつ最大限に利用されている。分子集合における糖構造の違いを利用した機能発現を目的として、糖に有機色素を、及びステロイドを結合させた化合物を合成した。様々な状態(結晶、単分子膜、ゲル)における分子集合体のスペクトル観察の中から、糖構造に由来するスペクトル変化を見出した。また、糖によって、溶媒に対するゲル化能にも顕著な差が現れた。
 今後は、ゲル化能と糖構造との関係を明らかにすると共に、大きなスペクトル変化の系において記憶・認識材料へ展開する。
〔機能/反応系〕
(9) 原子間力顕微鏡用ゲル探針の開発
 原子間力顕微鏡(AFM)は、ナノメータスケールで表面の分子を直接観察できる装置として、広く使われている。これまでのプローブとしての探針は、観察対象である試料表面を探るために、鋭く、剛直で、変性のないものを目指して開発されてきた。また、AFMは、そのような探針で、表面を幾何学的になぞることで動作する。最近、我々は、「見る」ことを主体とせず、AFM自身があらかじめプログラムされたタスクを自動的にこなしたり、分子をある特定の性質を持つ箇所まで自動運搬するインテリジェントAFMを提案した。その構築を目的として、外部刺激に選択的に応答し、様々な分子を保持、放出できる能力を持つナノメータスケールのゲル探針を開発した。乾燥時に6ナノメータの厚みのあるゲルで覆われた探針は、水中では30ナノメータに膨潤した。また、pHを順々に下げていくと2で急激に収縮し、内部に保持していた分子を一気に放出する特性を持つゲル探針や、特定の核酸にのみ応答して収縮するゲル探針も作製した。この技術は、化学的な微細プローブや、生化学研究に必要な超微量物質の検出などにも応用可能である。
(10) ゾルゲル法による分子記憶の固定化
 鉱物から連想する無機化合物の形態は直線あるいは面から構成される単純な形状であるが、生物の作り出す無機化合物は骨、歯、貝殻など曲線的で複雑な形態を有するものが多い。その生成過程には有機物と無機物との巧妙な相互作用が組み込まれている。言い換えれば有機物の作るミクロ及びマクロな分子情報を無機化合物が読みとって固定化(分子転写)したことになる。この研究では生体組織にしばしば見られるゲル構造をモデルに、単純な有機化合物でゲル構造を生成し、この形態及び分子配列情報(中でもカイラリティー)を無機化合物で固定化(鋳型重合)する事を試みた。
 有機低分子ゲル化剤とは種々の溶媒を僅かな添加量でゲル化する一群の低分子化合物を指す。我々はコレステロール系ゲル化剤を用いてゾルゲル法におけるシリカの出発反応溶液をゲル化し、内部に生成した有機ゲル繊維を鋳型にシリカを付着、重合することを試みた。種々検討の結果、ゲル化剤にイオン性部位を持たせることでシリカオリゴマーのゲル繊維に対する静電的吸着が生起することを見出し、中空糸状シリカの調整法を確立した。更に、中性のゲル化剤をイオン性ゲル化剤に混合することでヘリックス構造を有するシリカ中空糸が形成されることも見出した。
 これはゲル化剤の持つキラリティーに対応してシリカが配列したものと考えられる。これを確かめるため、鏡像体を有するゲル化剤を用いて検討し、キラリティーに対応した右巻きと左巻きのヘリックス状シリカ中空繊維の作り分けが可能であることを確認した。無機化合物に有機化合物の有するキラリティーを転写するこの方法は、機能性無機化合物の新しい調整法として発展していくものと期待される。

This page updated on March 30, 2001

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