別紙2

山本量子ゆらぎプロジェクト事後評価報告書

1.研究の内容

 現代エレクトロニクスの根幹を担う超高集積LSIや超大容量光通信などの技術は、超高速化、超微細化、エネルギー消費低減の極限に向かって発展を続けており、その要素機能はますます少数の電子やフォトン(光子)に依存することになる。このような少数の電子や光子を制御し利用する上で、量子力学の本質に起因する統計的なゆらぎ、すなわち「量子ゆらぎ」が、極限的な制約をもたらすと考えられている。この研究プロジェクトは、「量子ゆらぎの制御」による限界打破を目指して、現代科学の根底を支えている量子力学の基本概念の再検討と実験によるその直接検証を行った。その研究の特徴は以下に要約できる。

 (1)少数光子や少数電子の制御が自在に行える物理系の実現をはかり、その舞台としてのメゾスコピックないし極微細の構造の物質や素子を開発し活用した。

 (2)量子物理系として光と物質を対等に扱い、各種の概念や技術の相互転換を行って科学的な理解を発展させた。

 (3)量子論や統計力学の基礎法則に関わる実験的な研究を行い、従来は机上の概念にとどまっていた事象のいくつかを実証することに成功した。

 (4)研究内容は、純学術的な視点から見て極めて有意義なものであるが、「量子コンピューティング」や「スクイーズド状態の利用による光雑音の抑制」などの研究に特に顕著に見られるように、その多くが革新的な未来技術や超高感度分光法など新しい高精度の計測技術への発展・応用の可能性を持ち、今後の産業技術への大きなインパクトが期待できる。

2.研究成果の状況

 本プロジェクトが、上述のように理論的にきわめて興味深い物理系を最新のデバイス技術を駆使して実現し、実験と理論の両側面で本質をえぐる困難な課題に果敢に挑み、大きな成功をもたらしたことは賞賛されるべきである。研究成果の破格な豊かさは、33名のプロジェクト・メンバーが5年間に産出した95件の論文、41冊の書籍、178件の口頭発表という、この種のテーマとして考えられる平均的な水準を遙かに上回る学術的な発表の件数からもうかがえる。また、研究成果の質の高さとそれが研究の世界に与えたインパクトの大きさは、74回という多数に及ぶ学会基調講演や招待講演の回数からも推し量ることができる。その質的内容が極めて高い水準にあることは、本委員会の一致した見解であるだけでなく、後述するように、海外のこの分野の指導的研究者の意見によっても裏付けられている。

3.研究成果の科学技術への貢献

 このプロジェクトは、取り上げた多くの研究領域で世界的にトップレベルの研究成果をあげ、世界の研究をリードしてきた。得られた成果の多くが極めて独創的で、新しい概念を提示してこの分野の科学研究を刺激している。研究全体が極めて基礎的であるため、工業技術への直接的な影響は現時点でははかりにくいところがあり、その意味で特許などの工業所有権の形で権利を主張することにはなじみにくい部分がある。しかし、将来的には、極めて根元的で大きな波及効果が期待できる。以下に、特に注目される研究成果を要約する。

 (1)スクイーズド光発生用半導体レーザー及び単一光子ターンスティル応用素子の開発と応用
 両者とも新しい着想と技術によって、原理的に避けることができないとされていた量子ゆらぎを抑制した高性能の光源素子を実証したもので、概念的な革新性に加えて応用の可能性に展望を与えた点で極めて突出した研究成果として国際的にも高い評価が寄せられている。

 (2)波動関数の観測による確定可能性に関する理論的研究
 「波動関数」が量子力学の記述のための数学的なツールにとどまるのか、観測により確定可能な物理的な実体であるのか、国際的な学術論争として行われたこの研究は、量子力学の基盤に関する理解を進展させたものとして専門家の間で高く評価されている。
 
 (3)電子系における量子干渉の実験
 電子衝突によるゆらぎの観察から電子がフェルミ粒子であることを直接実証した実験や、Brown-Twiss 型の干渉実験からフェルミ粒子の反相関を実証した実験などは、電子系の量子論的基礎に関する先駆的かつ見事な研究として価値が高い。新しい原理による電子デバイスへの発展も期待される。

 (4)エキシトン−ポラリトンの誘導放出の実証
 レーザー作用、すなわち光子に対する増幅作用、の基本プロセスである誘導放出が、物質中の素励起であるエキシトン−ポラリトンに対しても生じることを実証した。これは、最近の画期的な成果として注目されている気体のボーズ凝縮や原子波レーザーに匹敵する新しい分野を開くものである。また、素励起の統計性の実証という基礎科学的な意義もある。

 (5)単一原子についてのクーロン振動の観測
 単一電子トランジスターなどのメソスコピック素子の研究は基礎研究としての重要性に加えて将来的な工業技術への応用の可能性の点から世界的に研究が活発に行われているが、本プロジェクトが実現した単一原子接合におけるクーロン振動の検出は、このようなメソスコピック現象の対象を一挙に単一原子のレベルにまで極微細化させたものと評価できる。

 (6)量子コンピューティングに関する基礎研究
 量子力学の基本原理の直接的な応用である量子コンピューティングはきわめて困難な課題であるが、実現すればその社会的な意義は計り知れない。このプロジェクトでは、量子コンピューティングの概念について理論的な理解を深めるとともに、量子コンピュータを核磁気共鳴(NMR)を利用して実現する可能性を提案したが、この提案はこの分野の研究を加速するのに大きな影響力があった。また、量子論の単なる応用だけでなく、「多量子系の絡み合った状態」という基礎概念を通じて量子論の基礎の発展にも寄与するであろう。

  
4.その他の波及効果

 本プロジェクトは、主要拠点が外国にあり、国内拠点と呼応して研究が進められたという点で、組織運営上、他のプロジェクトにない独自性がある。しかも、Stanford大学という米国の優れた研究センターを拠点とすることによって、優秀な研究人材を世界的な規模でプロジェクトに招き入れ、かつ、極めて創造的な研究環境を提供することができたことが、このプロジェクトの成功の大きな要因になったと思われる。これは国際共同研究の新しいあり方を開拓したものとして今後のモデルになりうるものと考えられる。
 また、このプロジェクトの経験を通して多数の若手研究者が育成されたことも注目に値する。プロジェクトでの研究経歴をベースに優れた国際的な研究機関に転出し学会でリーダーシップをとる研究者を輩出した。日本人メンバーについても、国際的な環境の中で研究者として大きく成長したことがうかがわれる。本プロジェクトが組織運営上で上述のような独自の形態をとって成功した背景には、裏を返せば、このような時限的な性格の研究プロジェクトを、国内だけで、または国内主体で遂行する場合には、特に人材活用の面でかなり障害があるという現実がある。国内という地域的な狭さだけでなく、社会制度上の制約から、人材の流動性に未だ乏しく、優秀な人材を臨時的な職場に確保することに難しさがあるのは否めない。また、欧米の第一級の研究者を客員研究者などとして国内に招くことにも大きな困難がつきまとう。
 国内主体のプロジェクトの実施に際しては、このような障害を克服するために、いっそうの制度上の配慮が望まれる。と同時に、日本が実施するプロジェクトについても、テーマ内容に応じて、国の内外にとらわれずにそれが最も効果的に実施できる場所を選択し、積極的に国際的な人材を誘致し、また、国内の若手人材に世界トップレベルの環境の中で切磋琢磨する機会を与えることが、長期的にみれば我が国の科学技術の強化発展に効果的に寄与するであろうことを、本プロジェクトの成功が強く示唆していると考えられる。

5.その他の特記事項

(1)プロジェクト運営に関して
 このユニークな国際研究プロジェクトの成功の一つの要因は、プロジェクトリーダーの卓越したプロジェクト運営にあったことがうかがえる。上述のように、中心的な研究拠点を米国に置いて実施したことで国際的に優れた人材をメンバーとして集めることに成功しているが、それに加えて、プロジェクトとしての基本的な方向性を明示しつつ個々の研究者の自主性を十分に尊重したこと、また研究者の資質を見極めて適切な共同協力関係を設定したことなどによって研究者たちの能力を最大限に引き出すことに成功している。また、日本が主としてサンプルの作成と測定技術の開発を担当し、米国側が主として測定の実際と理論を担当したことは、両国の得意分野を巧みに組み合わせたものと考えられ興味深い。
 このような国際研究プロジェクトを推進するにあたって、リーダーや研究支援のスタッフの苦心には極めて大きいものがあったことは想像に難くない。会計年度の開始終了時期の差異をはじめ、経理その他の諸制度の日米の相違を乗り越えてプロジェクトを成功に導いた関係者の努力に敬意を表するものである。しかしながら、日本の単年度会計制度や、為替変動などがプロジェクト運営に与えた負担が小さくないこともうかがわれる。国内プロジェクトを含めプロジェクト運営に関わるこのような事務的・経理的な問題を克服するための制度の改善や柔軟性の拡大が期待される。また、米国の拠点スタンフォード大学において、本プロジェクトが大学の日常的な研究・教育活動の中に自然な形で組み合わされて、大学側の種々のサポートに支えられたことも極めて効果的であったと思われる。国内のプロジェクトで行われているように、限られたプロジェクト期間中にプロジェクト独自の独立した研究組織と研究支援組織を作り上げることは、大きな困難が伴いかつ効率が悪い。国際プロジェクトであると否とを問わず、既存の研究組織の中に自然に組み込まれる形の運営を可能にすることがERATOプロジェ クトのいっそうの活性化と成功に有効と思われる。

(2)国際評価
 このプロジェクトの国際的な性格に鑑みて、該当する研究領域の海外の研究指導者たちにも守秘(Confidential)を条件にコメントを求め、以下の3教授から回答を得た。
Prof. Hermann A. Haus
  Department of Electrical Engineering and Computer Science
  Massachusetts Institute of Technology
Prof. H. Jeff Kimble
  Physics Division
  California Institute of Technology
Prof. Seth Lloyd
  Department of Mechanical Engineering
  Massachusetts Institute of Technology
 寄せられたコメントは、当評価委員会の上記の意見を裏書きするもので、このプロジェクトの成果の科学的重要性及び将来技術へのインパクトを高く評価している。主要なコメントを以下に要約する。
 
 (1)このプロジェクトの研究が、量子論のもっとも基盤的な部分に踏み込んで、その理解を深化させたことに対する評価は高い。特に、波動関数の観測による確定の可能性に関する考察について、「彼らの主張が正しいならば、量子状態のクローニングが原理的に可能であるので、量子論についての基本的な考え方に変更が求められることとなろう」という意見が寄せられた。
As an example of a fundamental problem attacked and solved by Prof. Yamamoto and coworkers is that the wave function of a quantum system cannot be determined in full, in contradiction to claims by the Tel Aviv group of Y. Aharonov. If these claims had been correct, cloning of quantum states would be in principle possible, with conceptual consequences that would change fundamental aspects of quantum theory.
 
 (2)単一光子ターンスタイル素子実証については、「他を凌駕するきわめてすばらしい成果」というとりわけ高い評価が寄せられている。
In the more particular area of the investigation of quantum fluctuations in mesoscopic physics, his recent work on the single electron turnstile for the generation of single photon pulses and on the quantum statistics of electrons is absolutely spectacular and without peer.
 
 (3)さらに、量子コンピューティングに関する研究成果についても、この分野でのもっとも基本的な貢献をなしただけでなく、物理学の限界をテストする画期的な研究がなされたとの高い評価が寄せられている。
In addition to deriving fundamental results in the fields of quantum computation and quantum electrodynamics, the project has proposed and carried out a set of ground breaking experiments that have tested the limits of physics.
 
 (4)また、このプロジェクトが多くの優秀な研究人材を集め、しかも彼らにいきいきとした研究を可能にする研究運営を行い、研究人材の育成の点でも優れた成果を上げたことが評価されている。
The research group is vibrant and dedicated; it is evident that the research attracts first rate students. The project also served as an incubator for some first-rate scientists,(後略)
 
 (5)このようなプロジェクトを実現したことについてERATOに対しても高い評価が寄せられている。
I want to congratulate the ERATO program for supporting a research effort of the quality of Dr. Yamamoto's program, (後略)I congratulate ERATO on its successful scientific investment.

6.結論

 このプロジェクトは米国の1カ所、国内の2カ所の拠点に展開して実施されたが、本委員会はこれらの拠点の活動を個別に吟味する時間的余裕と情報を持たなかった。しかしながら、本プロジェクトが全体としてもたらした科学技術的成果および研究人材育成の成果は、この種のプロジェクトの中でも突出して大きく優れていると評価できる。この成功は、第一にプロジェクトリーダーの力、すなわちその卓越した研究実行力と、参加研究者の能力を十分に引き出した研究運営の力、によるところが大きいと考えられる。第二に、国内拠点に加えて、研究の本拠を海外の、しかも世界的なセンター・オブ・エクセレンス (COE)である研究機関内に設定したことも、優秀な研究人材を集めて真の国際プロジェクトとして成功したことに大きく寄与したと考えられる。今後、日本ベースの国際共同プロジェクトを米国のみならず太平洋地域などで展開する上で一つのモデルとなることが期待される。このような新しい形の国際プロジェクト成功の陰にはプロジェクト支援を行った関係者の多大な努力が寄与したことがうかがわれる。さらに、このようなリーダーとテーマをとりあげ、従来にないユニークな国際共同を可能にしたことはERATOの業績として高く評価されるべきと考える。


This page updated on December 8, 1999

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