ポイント
- インスリン刺激により発現が変化する遺伝子、物質量が変化するリン酸化たんぱく質や代謝物を網羅的に同定し、これらを統合することでインスリンの情報を伝える大規模代謝制御ネットワーク(トランスオミクスネットワーク)を構築しました。
- 高いインスリン濃度ではErk経路を介した転写因子誘導により遺伝子発現が、低いインスリン濃度ではPi3k-Akt経路を介した糖代謝が、それぞれ選択的に制御されることを見いだしました。
- インスリン濃度に対するトランスオミクスネットワークの選択的な応答を明らかにすることは、インスリンの生理的な作用や、その破綻である2型糖尿病のメカニズム解明に役立つと考えられます。
東京大学 大学院理学系研究科の川田 健太郎 大学院生と幡野 敦 特任助教、理化学研究所 生命医科学研究センターの柚木 克之 上級研究員、黒田 真也 教授らは、九州大学 生体防御医学研究所の中山 敬一 教授、松本 雅記 准教授、久保田 浩行 教授、宇田 新介 准教授、東京大学 大学院新領域創成科学研究科の鈴木 穣 教授、慶應義塾大学 先端生命科学研究所の曽我 朋義 教授、平山 明由 博士との共同研究により、転写を介した大規模代謝制御ネットワークがインスリンの濃度により選択的に制御されていることを明らかにしました。
血中インスリンは血糖値を下げる唯一のホルモンであり、インスリンが作用できなくなると糖尿病を発症します。血中インスリンは、食後の血糖上昇に応じて高濃度で分泌される追加分泌、絶食時に低濃度で維持される基礎分泌などの分泌様式を示します。インスリンは巨大なネットワークを介して代謝など多彩な生理現象を制御します。しかしインスリンの濃度により、これらのネットワークがどのように制御されるのかについては不明でした。
今回、研究グループは、インスリン刺激を行なった肝がん由来の培養細胞から取得したリン酸化プロテオーム、トランスクリプトーム、メタボロームデータを用いてインスリン刺激時の転写を介した大規模代謝制御ネットワーク(トランスオミクスネットワーク)注1)を構築しました。さらにネットワーク内の各分子のインスリンへの感受性を定量化することで、高濃度のインスリンでは転写因子の遺伝子発現やTCA回路、アミノ酸代謝が制御され、低濃度のインスリンでは代謝酵素の遺伝子発現や解糖系が制御されることが分かりました。さらに、ラットを用いた個体レベルの解析から、発現が変化する遺伝子およびたんぱく質の一部は、実際に生体内の肝臓でも同様の応答をすることが確かめられました。このことは細胞内ネットワークが、インスリンの濃度に依存してそれぞれ選択的に使い分けられていることを示しています。
本研究は、科学研究費若手研究(A) 「トランスオミクスによる疾患特異的ネットワークの同定と制御」(研究代表者:柚木 克之)からの支援も受けて行われました。
本研究成果は、2018年9月10日(米国東部夏時間)にCell Press「iScience」のオンライン版に掲載されます。
本研究は、JST 略的創造研究推進事業(CREST) 「生命動態の理解と制御のための基盤技術の創出」研究領域の研究課題名「時間情報コードによる細胞制御システムの解明」(研究代表者:黒田 真也)および新学術領域研究(研究領域提案型) 「2型糖尿病の代謝アダプテーション」(研究代表者:黒田 真也)の一環として得られました。また、JST 戦略的創造研究推進事業(さきがけ) 「生体における動的恒常性維持・変容機構の解明と制御」(研究者:久保田 浩行)、JST 戦略的創造研究推進事業(さきがけ) 「疾患における代謝産物の解析および代謝制御に基づく革新的医療基盤技術の創出」(研究者:柚木 克之)および新学術領域研究(研究領域提案型) 「精神病態の分子基盤解明を可能にする次世代トランスオミクス技術の開発」(研究代表者:柚木 克之)からの支援も受けて行われました。
<研究の背景>
血中インスリンは膵臓β細胞より分泌制御される血糖値を下げる唯一のホルモンであり、インスリンが作用できなくなると糖尿病を発症します。健常人では、血中インスリンは、食後の血糖上昇に応じて高濃度で一過的に分泌される追加分泌、絶食時に低濃度で持続的に維持される基礎分泌などの時間変化を示します(図1)。インスリンは巨大なネットワークを介して代謝など多彩な生理現象を制御します。しかし、これらのネットワークがインスリンの濃度に対し、どのように応答するのかについては不明でした。本研究チームは、インスリンの濃度に対するネットワークの選択的応答について解析しました。
<研究の内容>
インスリン刺激時の遺伝子発現を介した代謝制御ネットワークの構築
本研究チームは、ラット肝がん由来のFAO細胞にインスリン刺激を施し、トランスクリプトーム実験注2)、リン酸化プロテオーム実験注3)、メタボローム実験注4)によりそれぞれRNA、リン酸化たんぱく質、代謝物量の時間波形を、網羅的に取得しました。またこれらの網羅的データからインスリン刺激に対して増加もしくは減少する258遺伝子、1,947リン酸化たんぱく質、93代謝物を同定しました。インスリンに応答する258遺伝子の発現を制御する33転写因子注5)を遺伝子の塩基配列から推定しました。またインスリンに応答する1,947リン酸化たんぱく質からインスリンのシグナルを伝えるシグナル伝達ネットワークを同定し、転写因子の活性を制御するたんぱく質をデータベースから同定することで、インスリン刺激に対して応答を示す遺伝子の制御ネットワークを構築しました。さらにインスリン応答性遺伝子のうち代謝に関与する遺伝子を選定し、同時にインスリンに応答する93代謝物からこれらの代謝反応を調整する代謝物を同定することで、インスリン刺激時の遺伝子発現を介した代謝制御ネットワークを構築しました。このネットワークには56シグナル伝達たんぱく質、33転写因子、258遺伝子、23代謝酵素、93代謝物が含まれていました(図2)。
複数濃度のインスリン刺激を駆使した感受性解析
本研究チームは、ネットワークに含まれる分子がインスリン濃度に対してどのように応答するかを詳細に解析しました。トランスクリプトーム実験により、インスリン濃度依存的に発現が増加する遺伝子の多くは転写因子をコードする一方で、インスリン濃度依存的に発現が減少する遺伝子の多くは代謝酵素注6)をコードすることが分かりました。インスリンの濃度に対する感受性を調べたところ、前者の遺伝子群は後者の遺伝子群よりインスリンに対する感受性が低い(高いインスリン濃度に応答する)ことが分かりました。リン酸化プロテオーム実験により、転写因子はシグナル分子に比べて感受性が低いことが分かりました。さらにメタボローム実験により減少する代謝物の多くは解糖系の代謝物であり、増加する代謝物の多くはTCA回路の代謝物であることが分かりました。インスリンに対する感受性は、前者の方が後者より高い(低いインスリン濃度に応答する)ことが分かりました。これらの結果は細胞が、高いインスリン濃度に対しては転写を介して主に細胞機能を制御し、低いインスリン濃度に対しては主に糖代謝を制御することを示唆しています(図3)。これらのトランスオミクスネットワークに含まれる遺伝子のいくつかは、実際にラットの生体内の肝臓でもインスリン刺激に対して同様の応答をすることが確かめられました。
<社会的意義>
細胞内分子の網羅的定量からインスリン作用全貌の定量へ
本研究における複数の刺激濃度を駆使した解析手法は、インスリンだけでなく、生体内で分泌濃度が変化するさまざまなホルモンやサイトカインに適用することができます。広範なインスリン作用の全貌を効率的に予測・制御するには、重要な生体応答の応答特性を数値化して評価することが、理解への近道になると思われます。
細胞から個体へ
本研究では、ラットを用いた個体レベルの解析から、発現が変化する遺伝子およびたんぱく質の一部は、実際に生体内でも同様の応答をすることが確かめられました。このことは、インスリンの情報を伝えるネットワークが、インスリン濃度に依存して選択的に制御されていることを示しています。
例えば疾患モデルの動物個体に対して刺激を与える場合も、刺激濃度を能動的に変化させることにより、生体内での応答を選択的に制御するなど、投薬や治療指針の提示につながる可能性があります。
<参考図>
図1 血中インスリン濃度の概念図
図2 構築された代謝制御ネットワーク
図3 選択的なネットワーク使用の一例
<用語解説>
- 注1)トランスオミクスネットワーク
- 遺伝子発現・シグナル経路・代謝階層にまたがる大規模ネットワーク。
- 注2)トランスクリプトーム実験
- 網羅的な遺伝子発現計測。
- 注3)リン酸化プロテオーム実験
- 網羅的なリン酸化たんぱく質量計測。
- 注4)メタボローム実験
- 網羅的な低分子化合物量計測。
- 注5)転写因子
- 遺伝子発現を制御するたんぱく質。
- 注6)代謝酵素
- 代謝反応を制御するたんぱく質。
<論文情報>
タイトル |
“Trans-omic analysis reveals selective responses to induced and basal insulin across signaling, transcriptional, and metabolic networks” |
著者名 |
川田 健太郎、幡野 敦、柚木 克之、久保田 浩行、佐野 貴規、藤井 雅史、富沢 瑶子、小鍛治 俊也、田中 香織、宇田 新介、鈴木 穣、松本 雅記、中山 敬一、齋藤 香織、加藤 啓子、上野 綾乃、大石 麻希、平山 明由、曽我 朋義、黒田 真也 |
DOI |
10.1016/j.isci.2018.07.022 |
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>
黒田 真也(クロダ シンヤ)
東京大学 大学院理学系研究科 生物科学専攻 教授
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