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平成24年5月25日

東京大学 大学院理学系研究科
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科学技術振興機構(JST)
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「細胞内シグナリングの多重通信システム」
—インスリン時間波形による選択的制御システムを解明—

<発表概要>

東京大学 大学院理学系研究科の黒田 真也 教授らは、実験とシミュレーションを用いた解析により、インスリン分泌の複数パターンの時間変化(波形)が、1つのシグナル伝達経路を介して多重に通信され、下流に位置する複数の分子がそれぞれ選択的に制御されることを明らかにした。

本研究は、「分子の機能そのものが生物の応答を制御する」という従来の生物学の概念に加え、「分子の量の時間変化(波形)によっても生物の応答が制御できる」という新しい概念を提示した。

また、糖尿病の解明や治療に大きく寄与する新しい概念を提示した。インスリンのほかにも複数パターンの時間変化を持つホルモンは数多く報告されていることから、この概念はインスリン作用に留まらず多くのホルモン異常などの疾病にも適用できる可能性がある。

本研究はJST 戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)「生命システムの動作原理と基盤技術」研究領域(研究総括:中西 重忠 (財)大阪バイオサイエンス研究所 所長)における研究課題「シグナル伝達機構の情報コーディング」(研究代表者:黒田 真也)の一環として行われた。

本研究成果は、2012年5月24日(米国東部時間)発行の「Molecular Cell」に掲載される予定である。

<研究概要>

生体内におけるインスリンの分泌には、食後に一過的に分泌される追加分泌や空腹時にも微量に分泌される基礎分泌、そして15分程度の周期的分泌などがあり、血中インスリンの量は複数の時間波形成分からなることが知られている(図1、下図左)。また、糖尿病の初期では追加分泌量が減少する一方で基礎分泌量が増加することや、糖尿病患者では15分周期の振動成分が欠失していることが報告されている。さらに、インスリンの15分程度の周期的刺激は、一定刺激よりも肝臓からの糖新生抑制や筋肉などによる糖の取り込み促進の効果が強いことが報告されている。肝臓の糖新生や筋肉の糖の取り込み制御は血糖値の制御に非常に重要である。以上のように、インスリン波形の生理的重要性はいくつも報告されているが、同じインスリンの分泌が選択的に生理作用を制御する分子メカニズムは不明であった。東京大学 大学院理学系研究科 生物化学専攻の黒田 真也 教授らの研究グループは、実験とシミュレーションを用いた解析により、複数のインスリンの波形の情報がシグナル伝達経路注1)の1つであるAKT経路注2)を介して多重に通信され、下流の分子を選択的に制御できることを明らかにした。つまり、生物が多彩な外界の変化の情報を分子の時間波形に埋め込み、多重通信による選択的応答システムを用いて処理し、多彩な応答を制御している可能性を見いだした。現在の生物学では分子そのものが生物の多様な応答を制御する機能を持つと考えられてきたが、本研究により、分子の活性や量などの時間変化(波形)によっても生物の多様な応答を制御できることが明らかになった。将来的にはモデル動物などを用いて検証を行い、糖尿病において効果的な投薬治療の設計や、15分程度の周期波形の生体内での作用メカニズムの解明の解明にもつながると考えている。また、糖尿病の初期によく観察される従来の生物学・医学ではうまく説明できない矛盾、つまりインスリンに対する応答性の低下により肝臓からの糖の放出が十分に抑制されず高血糖になる一方で、インスリンを利用する脂肪の合成が促進され脂肪肝になる現象の解明も期待される。

①研究の背景

細胞は限られたシグナル伝達経路を用いて外界の変化という複雑で多くの情報を処理しなくてはならない。これを達成するために、細胞は分子の組み合わせにより情報を通信するという方法を用いていることが広く知られている。近年、我々はこの分子の組み合わせ以外に、分子の時間変化(波形)に情報を埋め込み多重に通信処理する「時間情報コーディング」の概念を世界に先駆けて提唱している(図1)。

インスリンは血糖値を下げることのできる唯一のホルモンであり、すい臓から分泌される。糖尿病との関係は非常に深く、いくつかの原因により体内のインスリンに対する応答性が低下すると糖尿病になることが知られている。生体内におけるインスリンの分泌は食後に一過的に分泌される追加分泌や空腹時にも微量に分泌される基礎分泌、そして15分程度の周期波形からなる血中波形など複数の時間波形成分の存在が知られている(図1、下図左)。しかし、インスリンの15分程度の周期的刺激は一定刺激よりも肝臓からの糖新生抑制や筋肉などによる糖の取り込み促進の効果が強いことや、糖尿病の初期によく観察される肝臓からの糖新生抑制は阻害されるが脂肪の合成は促進される現象など、従来の生物学・医学ではうまく説明できない矛盾があることも知られている。

②研究内容

我々は、インスリン作用に関するシグナル伝達経路の中心分子であるAKTが、インスリンの複数の時間波形を多重に通信して、その下流に位置するS6K注3)GSK3β注4)G6Pase 注5)を選択的に制御できることを実験とシミュレーションによる解析で明らかにした(図2)。実験によりインスリン刺激を加えた場合、同じAKTの下流分子にも関わらず、S6K、GSK3β、G6Pase の分子の時間波形は異なった(図3)。これは、AKTの時間波形に多重に情報が埋め込まれ、3つの分子へそれぞれ選択的に伝達されていることを示唆している。次にこれらの分子の挙動の特徴を明らかにするため、コンピューターシミュレーションを用いて実験で得られた時間波形を再現するモデルを作成した(図3)。その結果、分子の制御構造や酵素の性質の違いにより、AKTに埋め込まれた多重の情報を下流分子がそれぞれ選択的に取り出して応答していることが明らかになった。次に我々は、生体内のインスリン波形を模した刺激を与え、各分子の応答をシミュレーションと実験により確認した。その結果、S6Kは追加分泌には応答できるが基礎分泌や15分の刺激には応答できないこと、G6Pase は追加分泌や基礎分泌には応答できるが、15分の刺激には応答できないこと、さらにGSK3βはいずれの刺激にも応答できることが明らかになった。これらの結果は、S6Kによるタンパク質合成は主に食後のみに、G6Pase の抑制による長期の糖新生抑制は食後や空腹時のゆっくりした変動に、GSK3βによるグリコーゲン合成は状況に応じてしっかりと応答することを示唆している(図2)。つまり本研究は、生体内におけるインスリンの複数の時間波形がAKTに埋め込まれ、AKTがこれらの情報を多重に通信することで下流の分子を選択的に制御し、インスリンの異なる生理作用が生み出されることを明らかにした。

③社会的意義・今後の予定

本研究は、「分子が生物の現象を制御する」という従来の生物学の概念に加え、「分子の(活性化)波形によっても生物の現象が制御できる」という概念を提示した。本研究の概念を用いることで、背景で述べたインスリン作用や糖尿病病態の一見矛盾する現象のいくつかを説明できると考えられる。例えば、S6Kは追加分泌のような一過的波形にのみ応答できるので、一定刺激では1回しか応答できないが、ある周期の刺激なら複数回応答できる。つまりS6Kのような制御機構が存在すると、一定刺激より周期的刺激に応答できることになる。従って、肝臓の糖新生抑制や筋肉の糖の取り込みなどの作用経路にS6Kのような制御機構が存在すると仮定すると、インスリンの15分程度の周期的刺激が一定刺激よりも強い作用を示すという現象を説明できる。また糖尿病患者では15分周期の振動成分が欠失して基礎分泌が増加することが知られているが、上記と同様に糖新生抑制がS6Kのような制御機構だと仮定すると、15分周期の振動成分が欠失するために糖新生抑制が阻害される。一方G6Pase のような一定刺激に応答する制御機構が脂質合成を制御していれば、基礎分泌量が増加する(一定刺激が強まる)ので脂質合成は促進される。このようにして、糖尿病の初期によく観察される、肝臓からの糖新生抑制は阻害され高血糖になるが脂肪の合成は促進され脂肪肝になるという現象を説明できる。

また、インスリンの他にも周期性を持つホルモンは数多く報告されていることから、この概念はインスリン作用に留まらず多くのホルモン異常などの疾病にも適用できると考えられる。さらに、刺激の時間波形によって選択的に応答が制御できるという研究結果は、持続時間や投薬回数を考慮した薬剤開発が重要であることを意味している。今後はモデル動物などを用いて本研究成果を検証し、より効果的な糖尿病における投薬治療の設計やインスリン作用のメカニズムの解明、糖尿病病態の解明、他のホルモン異常の疾病解明など、医療の発展にも貢献していきたい。

<発表雑誌>

雑誌名:「Molecular Cell」
論文タイトル:Temporal Coding of Insulin Action through Multiplexing of the AKT Pathway
(AKT経路の情報多重化によるインスリン作用の時間情報コーディング)
著者:久保田 浩行、野口 怜、豊島 有、尾崎 裕一、宇田 新介、渡邉 可奈子、小川 渉、黒田 真也
doi : 10.1016/j.molcel.2012.04.018

<参考図>

図1

図1 多重通信システム

ラジオでは番組の情報を電磁波の周波数や振幅に多重に埋め込む(上図、左)。ラジオは電磁波の周波数や振幅に埋め込まれた多重の情報を分離して番組の情報を取り出す(上図、右図)。我々の研究成果でも同様に、生物も生理作用の情報をインスリンの波形に周波数や振幅に多重に埋め込み(下図、左)、インスリンの標的臓器はインスリンの周波数や振幅に埋め込まれた多重の情報を分離して下流の応答を情報に応じて活性化する(下図、右)ことを明らかにした。

図2

図2 AKT経路によるインスリンの多重通信システム

3つの血中インスリンの波形の情報は多重にAKTの時間波形に埋め込まれる(青:基礎分泌、赤:追加分泌、緑:15分の刺激)。AKTの下流のS6K、GSK3β、G6Pase は分子の制御構造や酵素の性質の違いにより、AKTに埋め込まれた多重の情報をそれぞれ選択的に取り出して応答している(矢印の太さが応答のし易さを表現している)。これにより、S6Kは追加分泌のみに、GSK3βは全ての波形に、G6Pase は追加分泌と基礎分泌に応答することができる。

図3

図3 実験とシミュレーションを用いた解析(本研究の流れ)

  • ①実験により各分子の時間波形を測定する。
  • ②コンピューターシミュレーションを用いて実験で得られた時間波形を再現するモデルを作成する。
  • ③ モデルで得られた特徴を実験で検証する。
  • ④コンピューターシミュレーションから特徴を抽出、メカニズムを解明する。

<用語解説>

注1) シグナル伝達(Signal transduction)
細胞外のホルモンや成長因子、栄養などの環境変化の情報は受容体などを介して細胞内に伝わっていき、最終的に細胞の応答を導く。細胞内に情報を伝える経路はシグナル伝達経路と呼ばれ、一般にリン酸化酵素などによる連鎖的な生化学反応によって構成されている。
注2) AKT経路(AKT pathway)
細胞内シグナル伝達経路の1つ。主に、細胞の増殖・成長を制御している。特に肝臓・筋肉・脂肪などのインスリンの標的細胞では、インスリン刺激により活性化され、糖や脂質の代謝、タンパク質合成を制御している。
注3) S6K(ribosomal protein S6 kinase)
AKT経路の下流に位置するリン酸化酵素。インスリン刺激によってタンパク質合成を促進し、細胞の成長を制御していると考えられている。
注4) GSK3β(glycogen synthase kinase−3 beta)
AKT経路の下流に位置するリン酸化酵素。インスリン刺激によりグリコーゲンの蓄積を制御していると考えられている。
注5) G6Pase (glucose−6−phosphatase)
AKT経路の下流に位置する酵素。糖新生を制御する中心的役割を担う分子。インスリン刺激によって減少する。糖新生の短期(数分程度)の制御には関わらないが、長期(数時間以上)の制御に関与する。

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>

東京大学 大学院理学系研究科 生物化学専攻 教授
黒田 真也
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<報道に関すること>

東京大学 大学院理学系研究科 広報・科学コミュニケーション 准教授
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