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平成23年6月27日

科学技術振興機構(JST)
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名古屋大学
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エストロゲンで温度記憶を制御する線虫の温度感知システムを発見

(温度感知と記憶の仕組みの解明に大きく前進)

JST 課題達成型基礎研究の一環として、名古屋大学 大学院理学研究科の森 郁恵 教授と杉 拓磨 研究員らは、線虫を用いた研究で、女性ホルモンとして知られるエストロゲン注1)を介して記憶を制御する、全身性の温度感知システムを発見しました。

温度は、地球上に生息する全生物にとって最も重要な環境情報の1つであり、生物の全身の代謝やホルモンバランスに甚大な影響を及ぼします。そのため人間は常に、自らが記憶している快適な周辺環境の温度と、その時の外気温とを照らし合わせたうえで行動を変え、健康状態の維持に努めます。また、温度感知やその記憶に異常がある場合、温度差過敏症注2)などの重い疾患につながります。このため、周辺環境の温度を感知して記憶する仕組みの解明は、人類の存続に関わる重要課題となっています。これまで動物の温度の感知は、神経回路内の感覚ニューロンにより行われると考えられていました。

本研究グループは今回、人間と類似した遺伝子を多く持つ線虫C.エレガンス注3)をモデル生物として使い、ヒートショックファクター注4)と呼ばれるたんぱく質が、神経系・筋肉・腸など体のさまざまな組織で生育温度を感知するという全身性の温度感知メカニズムを発見しました。さらに、この温度感知によって体内でエストロゲンの合成が促され、その結果、神経回路における情報の流れが変化し、周辺環境の温度についての記憶が変化することも突き止めました。

ヒートショックファクターやエストロゲンは、人間をはじめとするほ乳類において重要な働きをしていることから、今回の成果は、人間の温度感知や記憶の仕組みの解明、それらが関わる疾患の治療法の開発にも大きく役立つものと期待されます。

本研究成果は、2011年6月26日(英国時間)に英国科学雑誌「Nature Neuroscience」のオンライン速報版で公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。

戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)

研究領域 「生命システムの動作原理と基盤技術」
(研究総括:中西 重忠 大阪バイオサイエンス研究所 所長)
研究課題名 「行動を規定する神経回路システム動態の研究」
研究代表者 森 郁恵(名古屋大学 大学院理学研究科 教授)
研究期間 平成18年10月~平成24年3月

JSTはこの領域で、生命システムの動作原理の解明のために新しい視点に立った解析基盤技術を創出し、生体の多様な機能分子の相互作用と作用機序を統合的に解析して、動的な生体情報の発現における基本原理の理解を目指しています。

上記研究課題では、全神経回路が分かっている線虫に着目し、温度学習行動を規定する神経回路動態の仕組みの解明を目指します。

<研究の背景と経緯>

私たちが普段感じている環境情報のうち、温度は生存に直結する情報です。わずか1~2℃の外気温の変化ですらも、健康状態に劇的な影響を及ぼします。そのため私たち人間は、自らの健康状態を良好に保つため、常に最適温度と外気温を比較し行動を変えています。従って温度の感知やその記憶の異常は、重い疾患につながる恐れがあり、快適な社会生活を送るうえでの障害となります。このように、温度はあらゆる環境情報の中でも極めて重要なことから、温度感知と温度記憶のメカニズムの解明に向けた研究が世界中で行われてきました。

カリフォルニア大学のジュリウス教授の研究チームは、1997年に温度を感知する分子としてTRPたんぱく質の一種であるTRPV1という分子を発見しました。その後、世界中でTRPたんぱく質の研究が行われ、この分子は主に感覚ニューロンの細胞膜で機能することが明らかになりました。これらの研究から、「温度情報は、主に温度受容ニューロンの細胞膜にある分子により感知され、その情報が脳内の中枢系に運ばれて記憶や行動の変化を導く」ということが一般的な認識となっていました。

ところが最近、TRPたんぱく質は神経系組織以外の皮膚などにも存在することが示され、感覚ニューロン以外でも温度を感じているかもしれないと考えられるようになってきました。温度が必然的に全身に行き渡り、細胞内の代謝やたんぱく質の構造に影響を及ぼすことを考えると、神経系以外の組織でも温度を感知している可能性は十分にあります。

本研究チームは、人間と類似した遺伝子を多く持つ線虫C.エレガンスを用いて、温度の記憶が形成される過程を調べながら(図1)、「温度を感知する分子は、感覚ニューロンの細胞膜だけでなく、他の組織やその細胞内にあってもよいのではないか」と考え、新たなメカニズムの発見を目指してきました。

<研究の内容>

本研究では、線虫の全22,500遺伝子を対象に、マイクロアレイ注5)と呼ばれる最先端の遺伝子解析技術を用いて、新しい温度の記憶が形成される4時間の間にどのような遺伝子が働いているのかを調べました(図2(a))。その結果、生育温度の範囲内での緩やかな温度の変化をヒートショックファクターと呼ばれる転写調節たんぱく質が直接感知することを突き止めました。ヒートショックファクターは、線虫の神経系だけでなく筋肉や腸など全身のさまざまなところで発現し、温度を感知していることも示されました(図2(b))。さらに、このような全身性の温度感知システムは、女性ホルモンであるエストロゲンの合成を促すことにより(図3)、温度の記憶を制御し、線虫の行動の変化を導くことを明らかにしました(図4)。

本研究によって、以下のような結果が得られました。

<今後の展開>

今回の線虫による研究で、温度感知と温度記憶に関わることが見いだされたヒートショックファクターやエストロゲンは、私たち人間も持っている分子です。従って、全身性の温度感知システムとエストロゲンによる神経回路上の情報伝達の変化の仕組みは、人間にも備わっている可能性が十分に考えられます。特に、女性ホルモンであるエストロゲンは、乳がんや子宮がんなど多くの重大疾患の要因となる分子です。本研究をもとに今後、温度と神経回路における情報の流れの変化と、乳がんをはじめとする疾患の関係性について、新たな研究が展開されることが期待されます。

<参考図>

図1

図1 線虫C.エレガンスを使い、温度の感知と記憶の仕組みを調べる

線虫C.エレガンスは、一定の温度下で飼育された後に、温度勾配を作った環境に置かれると、1時間後には飼育された温度に移動する行動を取る。そのため、この行動は、温度感知と温度記憶の仕組みの解明の優れたモデル系と考えられる。

図2

図2 温度への応答行動におけるヒートショックファクター発現の様子

  • (a): 全22,500遺伝子を対象に、17℃を記憶する間の各遺伝子の発現をマイクロアレイにより調べた。
  • (b): ヒートショックファクターが全身のさまざまな組織で発現し、温度を感知していることを突き止めた。
図3

図3 エストロゲンとエストロゲン受容体によるAFD感覚ニューロンの機能調節

  • (a): 女性ホルモンであるエストロゲンは、記憶に基づく行動に影響を与える。図は温度勾配プレートの20℃付近に置かれた線虫の1時間後の軌跡(白い線)と位置(白い点)を表す。
  • (b): AFDニューロンにおけるエストロゲン受容体の重要性を確認するため、ヒートショックファクター機能低下株のAFD内のエストロゲン受容体の量を青色の矢印の向きに人工的に増加させ、AFDの神経活性の変化を測った。上・中・下の3段は、エストロゲン受容体の濃度が低・中・高と上昇していく様子を示す。エストロゲン受容体の濃度が上昇するのに伴い、17℃(温度変化前)から23℃(温度変化後)へ温度上昇させた際のAFDの神経活動は、高・中・低と、低下することが分かった。従ってヒートショックファクター機能低下株、すなわちエストロゲン合成量の低下した株では、AFDの中のエストロゲン受容体の発現濃度が増えると、不活性化型のエストロゲン受容体が増えて神経活動が低下したと考えられる。

これらの結果は、AFD温度受容ニューロンは、エストロゲン受容体により制御されることを示している。

図4

図4 神経回路は、エストロゲンを介して全身性の温度受容システムから制御を受ける

<用語解説>

注1) エストロゲン
コレステロールから合成されるステロイドホルモンの一種で、女性ホルモンとして知られる。主に女性の卵巣や胎盤、副腎皮質で作られ、思春期以降分泌が増加し、更年期以降は分泌が減少する。男性ではコレステロールからテストステロンが作られ、そこからエストロゲンが作られる。男性におけるエストロゲンの量は、更年期の女性と同程度である。また、植物にはエストロゲンと類似の生理作用を持つものとして、イソフラボンなどがある。エストロゲンの受容体は人間の体のいたるところで発現し、その働きは多岐にわたっている。エストロゲンは、がん細胞の増殖を促進する作用を持っており、乳がんや子宮がんの患者の組織では、健常人と比較してエストロゲン受容体の発現が上昇している。そのため、エストロゲン受容体は、乳がんの治療における治療薬のターゲットとして注目されており、全世界で治療薬の開発が行われている。
注2) 温度差過敏症
周辺環境温度の変化そのものが刺激となり、じん麻疹を引き起こしたり、鼻水やくしゃみが止まらなくなるなどの疾患。例えば、冬期にストーブに当たるとじん麻疹が出るのは、温度差に対するアレルギー反応であり、その仕組みの解明は重要な課題と考えられる。
注3) C.エレガンス
土壌に生息する非寄生性の線虫で、正式名称はセノハブダイティス・エレガンス。古くから分子遺伝学的解析に使われ、細胞死の発見やRNA干渉の発見により2002年と2006年のノーベル医学生理学賞の対象となる研究などにも用いられた。1998年には多細胞生物で初めて全ゲノム配列の解読が終了した。人間の遺伝子数に匹敵する約2万個の遺伝子を持ち、それらの中には人間の遺伝子と類似のものが多く含まれる。生命現象の分子メカニズムを解析する上で有用なモデル生物である。
注4) ヒートショックファクター
酵母から人間まで多くの種で保存され、遺伝子の発現を変化させる転写たんぱく質。全ての種において、生育温度(線虫では15℃から25℃)よりも、数℃高い一過性の急激な温度変化(ヒートショック)を直接感知することが知られているが、本研究で見たように、生育温度そのものを感知することやその意義については、あまり知られていなかった。
注5) マイクロアレイ
人間や線虫には、2万個以上の遺伝子がある。これらの発現の変化を一つ一つ調べていくことは事実上不可能だが、マイクロアレイ法を用いると同時に2万個以上の遺伝子の発現を1度に解析できる。具体的には、一辺が微細なチップに各遺伝子に対応するDNA断片が貼付けられており、DNAの物理的性質を利用したハイブリダイゼーション(DNAに含まれる塩基のうち、アデニン(A)がチミン(T)と、またシトシン(C)がグアニン(G)と特異的に水素結合して二重らせん構造を作る性質を用いて、DNAやRNAの複合体を作ること)によって、どの遺伝子がどれだけ発現しているのかを一度に知ることができる。線虫の遺伝子が貼付けられたチップを使い、全遺伝子の発現レベルを網羅した解析が可能となる。

<論文名>

“Regulation of behavioral plasticity by systemic temperature signaling in Caenorhabditis elegans
(線虫C.エレガンスの全身性の温度受容シグナルによる行動可塑性の制御)
doi: 10.1038/nn.2854

<お問い合わせ先>

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森 郁恵(モリ イクエ)
名古屋大学 大学院理学研究科 教授
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