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平成22年3月23日

科学技術振興機構(JST)
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富山大学
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恐怖記憶を思い出す時の脳内アクチビン活性が記憶の運命を制御する

−心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの疾患治療に向けて前進−

JST目的基礎研究事業の一環として、富山大学 大学院医学薬学研究部(医学)の井ノ口 馨 教授らは、動物が恐怖記憶を思い出す時の、脳内たんぱく質の一種、アクチビン注1)の活性が、思い出した記憶を強化されるか消去されるか、その後の運命に対して重要な制御因子であることを突き止めました。

記憶は、学習―獲得―保持―想起という過程を経て形成されます。最近、げっ歯類(ネズミの仲間)を用いた研究から、一度形成された記憶は想起に伴って不安定化し、その後“再固定化注2)”と呼ばれる過程を経て強固になっていくことが見いだされました。また、“消去学習注3)”というプロセスを経ることで恐怖記憶が弱くなる現象も知られています。再固定化と消去学習の研究は現在盛んに行われていますが、その分子機序には未だ不明な点が多く、医学応用への展開も今後の課題として残っていました。

本研究グループは今回、アクチビンに着目し、脳内アクチビンと恐怖記憶との関係を調べました。この研究を行うため、まず脳内アクチビン活性を人為的に制御できる遺伝子操作マウスを世界で初めて作製しました。

このマウスを用いた研究により、記憶の再固定化が起きる実験条件下では、いったん強固に形成された恐怖記憶でも想起時に脳内アクチビンを阻害すると、その後、恐怖記憶が減弱すること、また消去学習が起きる実験条件下では、想起時に脳内アクチビン量を増やすと消去学習が抑制され、いったん形成された恐怖記憶が消去されにくくなることが分かりました。これらの結果から、脳内アクチビンは恐怖記憶の再固定化と消去学習の両方を制御していることを明らかにしました。

この成果は、アクチビンを標的として、他の記憶には影響を与えずに想起したトラウマ記憶のみを選択的に減弱させるという心的外傷後ストレス障害(PTSD)注4)治療法開発への展開が期待できます。

本研究は、藤田保健衛生大学 総合医科学研究所の上田 洋司 助教らと共同で行ったもので、本研究成果は、2010年3月23日(米国東部時間)に米国科学雑誌「Learning and Memory」のオンライン速報版で公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。

戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)

研究領域 「精神・神経疾患の分子病態理解に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」
(研究総括:樋口 輝彦 国立精神・神経センター 総長)
研究課題名 恐怖記憶制御の分子機構の理解に基づいたPTSDの根本的予防法・治療法の創出
研究代表者 井ノ口 馨(富山大学 大学院医学薬学研究部 教授)
研究期間 平成19年10月〜平成25年3月

JSTはこの領域で、少子化・高齢化・ストレス社会を迎えた日本において社会的要請の強い認知・情動などをはじめとする高次脳機能の障害による精神・神経疾患に対して、脳科学の基礎的な知見を活用し、予防・診断・治療法などで新技術の創出を目標にしています。上記研究課題では、動物モデルを用いて恐怖記憶の制御の分子機構を明らかにし、その知見から得られる動物モデル・トラウマ体験者・PTSD患者まで一貫した理論的根拠をもとに、PTSDの新規かつ根本的な予防法と治療法の創出を目指します。

<研究の背景と経緯>

記憶形成は、動物社会において“生存と危険回避”を行うために発達した基本的な機能であり、人間においても正常な記憶形成機能は非常に重要です。例えば、アルツハイマー病などによる記憶障害は日常生活に支障をきたし、一方、過度な恐怖記憶の形成はPTSDを引き起こすなどの影響を与えます。現在、これら記憶障害に対する特効薬は存在しないため、新しい薬剤開発が求められています。

以上のような社会的背景をもとに、記憶形成機構の研究は盛んに行われていますが、その分子・細胞機構には不明な点が多く、未だに全容解明には至っていません。

記憶形成は、学習―獲得―保持―想起からなりますが、一度形成された記憶は想起に伴い不安定化し、その後“再固定化”と呼ばれる過程を経て強固になっていくことが最近発見されました。想起時、すなわち形成された記憶を思い出した時にたんぱく質合成阻害剤を脳に注入すると、強固に形成された記憶でも減弱・消失します。一方、“消去学習”というプロセスによっても恐怖記憶が減弱することが知られています。“消去学習による記憶の減弱現象”と“再固定化阻害による記憶の減弱”は、両者とも脳内におけるたんぱく質の合成を必要としますが、関与する遺伝子やたんぱく質に相違があると思われます。

本研究グループは今回、記憶の中枢部位である海馬において神経活動が高まるとアクチビン遺伝子が発現誘導されることから、長期記憶の形成におけるアクチビンの役割に着目しました。

アクチビンは分泌ホルモン因子として、さまざまな臓器において増殖や分化を制御することが知られていますが、脳における働きについてはよく分かっていませんでした。井ノ口教授らはこれまでに、アクチビンがシナプス形態の制御や不安行動に関わっていることを見いだしてきましたが、PTSDなどの疾患治療の観点からは、さらに恐怖記憶の形成機構とりわけ再固定化と消去学習における分子機構の解明が求められています。

<研究の内容>

上述したように、記憶の形成は、学習―獲得―保持―想起、さらには再固定化や消去学習などの異なる段階を経ます。「アクチビンが、それぞれの段階でどのような役割を果たしているのか?」という問題を解くには、通常の遺伝子改変ではなく時間的制御が可能であり、かつ脳特異的な制御が可能な遺伝子改変動物が求められます。

この目的を達成するために本研究グループは、脳特異的かつ任意の時期にアクチビンやフォリスタチン注1)(アクチビン阻害たんぱく)の発現を制御できるアクチビンやフォリスタチン発現マウスを世界で初めて作製しました。さらに、このマウスを用いて電気生理学的実験を行い、記憶の細胞レベルの基礎過程と考えられている海馬の長期増強(LTP注5))というシナプス部位の変化を測定するとともに、恐怖条件付け注6)テストを行い、恐怖記憶の形成機構を解析しました。

その結果、下記の知見を得ました。

1)電気生理学的実験

作製した脳内アクチビンが阻害されたマウスでは、海馬の短期型LTP(E−LTP)注5)は正常でしたが、長期型LTP(L−LTP)注5)の形成が阻害されていました。

2)恐怖条件付けテスト

マウスを電線が敷いてある箱の中に入れ、その電線から電気ショックを与え、箱と電気ショックの連合記憶(恐怖記憶)を形成させました。

以上の結果から、恐怖記憶の想起時の脳内アクチビン活性が、想起された恐怖記憶のその後の運命決定に重要な役割を持つことが明らかになりました。

<今後の展開>

今回の研究成果は、脳内アクチビン活性を人為的に下げることでPTSDなどを引き起こすトラウマ記憶を選択的に消去・減弱できる可能性を示し、これらの疾患の根本的な治療法の開発への展開が期待されます。

また、この研究で新たに作製した遺伝子改変マウスは、アクチビンを標的とした薬物の探索にも寄与することが期待されます。

<参考図>

図1

図1 脳内のアクチビン活性は長期記憶の形成に重要であり(実験条件A)、かつ想起時のアクチビンの阻害は想起された記憶を減弱させる(実験条件B)

ここで行った恐怖条件付けでは、再固定化が生じる条件で恐怖記憶を想起させた(テスト)。トレーニング(条件付け)時に箱の中で電気ショックを与え、実験条件Aでは24時間後、実験条件Bでは7日後に再び同じ箱に入れた。テスト時には電気ショックは与えない。

実験条件Aでは、トレーニング時に脳内アクチビンを阻害すると、アクチビンを阻害しないマウスに比べてテスト時の“すくみ行動”が有意に減弱した。実験条件Bでは、恐怖記憶が形成された後の想起時(テスト1)に脳内アクチビンを阻害した。マウスのすくみ反応は、テスト1では異常なかったが、テスト2において有意な減弱を示した。この結果は、想起時のアクチビン阻害が、想起された恐怖記憶を減弱することを示している。

図2

図2 想起時のアクチビン増大は、消去学習を阻害する

消去学習が生じる条件で恐怖条件付けテストを行った。消去学習を生じさせる目的で図1の実験よりも“電気ショックが弱く”、“トレーニングとテスト1の期間が長い”。この実験群では21日後に再び同じ箱に入れている。

通常のマウスでは、テスト1に比べテスト2において、すくみ反応の減弱を示した(消去学習)。実験条件Cでは、テスト1では通常のすくみ反応を示したが、通常マウスのテスト2で見られたすくみ反応の減弱が阻害された。この結果は、想起時のアクチビン量の増大が、消去学習を阻害することを示している。

<用語解説>

注1) アクチビンとフォリスタチン
アクチビンは分泌因子群であるTGFβスーパーファミリーの一種であり、細胞の分化および増殖を制御する因子として知られている。アクチビンはアクチビン受容体に結合することで、そのシグナルを伝える。フォリスタチンはアクチビン阻害たんぱく質である。フォリスタチンも細胞から分泌され、アクチビンに特異的に結合する。結合したアクチビンーフォリスタチン複合体はアクチビン受容体に結合することができなくなる。
注2) 再固定化
恐怖条件付けにより形成された恐怖記憶は想起に伴い再固定化、もしくは消去学習のプロセスに入る。再固定化を阻害したり、消去学習を促進したりすることで恐怖記憶を「消去」することが可能なために、再固定化と消去学習の分子・細胞機構は現在盛んに研究されている。恐怖記憶を想起させる条件(想起時間や記憶の古さ・強さなど)により、再固定化に進むか、消去学習に進むかが決まる。
再固定化を引き起こす条件で恐怖記憶を想起させた直後にたんぱく合成阻害剤を脳へ投与すると、その後、恐怖を獲得した箱に入れてもマウスは恐怖反応をほとんど示さず、恐怖記憶が消失する。すなわち、想起するとその記憶はいったん不安定化するが、その後、脳内での新たなたんぱく合成を伴いその記憶を再び固定する(再固定化)。再固定化を阻害することで、恐怖記憶は「文字通りの意味で消失」すると考えられている。
注3) 消去学習
恐怖条件付けで形成された中立的な刺激と恐怖の連合は、その後、中立的な刺激のみを提示(恐怖なしで)し続けることで「消失」する(消去学習)。例えば、恐怖条件付けで箱と電気ショックの連合が形成された後に、電気ショック刺激無しで繰り返し箱の中にマウスを入れてやると、マウスは「この箱は危険ではない」ということを学習する(消去学習)。これは、箱と電気ショックの連合を忘れるのではなく、箱は安全であることを「新たに学習」するのであって、恐怖記憶が消失する再固定化の阻害とは異なるメカニズムである。“消去学習による記憶の(見かけ上の)減弱・消失”と“再固定化阻害による記憶の(完全な)減弱・消失”は、よく類似した現象であるが、分子・細胞機構は大きく異なると想定されている。
注4) 心的外傷後ストレス障害(PTSD:posttraumatic stress disorder)
恐ろしい体験や圧倒的な体験から精神的に外傷を受け、それによって強い感情的反応が症状として現れて長期的に持続する障害。戦争、災害、事故、強盗、レイプ、幼児期の虐待などがトラウマ的体験としてあげられる。PTSDでは、その種のできごとに対して、恐怖、無力感、戦慄などの強い感情的反応を伴い、長い年月を経た後にも、このようなストレスに対応するような特徴的な症状が見られる。恐怖体験に類似する、もしくは連想させるようなものや人に対しても強い拒否を示し、社会生活に支障が出てくる。
注5) LTP(long−term  potential)、短期型LTP(E−LTP)、長期型LTP(L−LTP)
LTPは、100Hzなどの高頻度電気刺激(テタヌス刺激)を神経線維に与えることで、線維の投射先シナプスにおいて、シナプス応答が増強しそれが長時間持続する現象である。LTPの誘導を阻害すると記憶の形成が阻害されることなどから、LTPは記憶の細胞レベルの基礎過程と考えられている。大脳皮質や海馬も含めさまざまな脳部位の神経細胞において、LTPでの可塑的な変化が観察される。
LTPは記憶と同様に、その持続時間から短期型(E−LTP)と長期型(L−LTP)に分かれる。E−LTPの誘導には新たな遺伝子発現やたんぱく合成は必要ではないが、L−LTPには両者が必要である。井ノ口教授らはこれまで、L−LTPを誘導すると、海馬でのアクチビン遺伝子の発現が誘導されることを見いだしている。
注6) 恐怖条件付け
恐怖条件付けでは、中立的な刺激(音や箱など)を恐怖(電気ショックなど)と組み合わせることで、両者の間に連合記憶を形成させる。その後、中立的な刺激に対して生じる恐怖反応を測定することで恐怖記憶の有無を判定する。
今回の恐怖条件付けでは、マウスを電線が敷いてある箱の中に入れ、その電線から電気ショックを与えることで、箱と電気ショックの連合を形成させる。すなわち、マウスはその箱が危険であることを覚え、再び同じ箱の中に入れられると、すくみ反応を示すようになる。箱とショックの連合記憶を忘れたマウスは、同じ箱に入れられてもすくみ反応を示さない。すくみ反応を観察することで、恐怖記憶を覚えているか否かを判定することができる。この恐怖条件付けは、海馬依存的な学習である。

<論文名>

“Activin plays a key role in the maintenance of long-term memory and late-LTP”
(アクチビンは長期型LTPと長期記憶の保持に対して重要な役割をする)
doi: 10.1101/lm.16659010

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>

井ノ口 馨(イノクチ カオル)
富山大学 大学院医学薬学研究部 医学部生化学講座 教授
〒930-0194 富山県富山市杉谷2630番地
Tel:076-434-7225 Fax:076-434-5014
E-mail:

<JSTの事業に関すること>

河村 昌哉(カワムラ マサヤ)
科学技術振興機構 イノベーション推進本部 研究領域総合運営部
〒102-0075 東京都千代田区三番町5番地 三番町ビル
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<報道担当>

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