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平成21年11月13日

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海馬における生後の神経新生が恐怖記憶の処理に関わることを発見

(トラウマ記憶が引き金となるPTSDなどの疾患解明に向けて前進)

JST目的基礎研究事業の一環として、富山大学 大学院医学薬学研究部(医学)の井ノ口 馨 教授(元 三菱化学生命科学研究所 グループリーダー)らは、生後の脳の海馬において新しく生まれた神経細胞が、海馬に蓄えられていた恐怖記憶の処理過程に重大な影響を及ぼしていることを発見しました。

海馬は学習記憶に重要な脳領域の1つです。ヒトを含む多くの動物種において、記憶獲得後、ある種の記憶の想起は、最初は海馬の働きを必要としますが、時間経過に伴い徐々にその海馬依存性が減少します。そして数週間後には海馬の働きを必要とせずに想起できるようになります、つまり時間経過とともに記憶の依存する脳領域が移行するのです。しかし、どのような仕組みで記憶が海馬依存的な状態から海馬非依存的な状態へとなるのかについては、これまで分かっていませんでした。また興味深いことに、海馬では脳の発生が終了した大人においても、新しい神経細胞が絶え間なく生産され続けていることが、ヒト、サルを含む多くの動物種で分かっています。

本研究グループは海馬における神経新生注1)が記憶形成に果たす役割に着目し、物理的あるいは遺伝子改変技術によって海馬の神経新生が障害されたマウス、対照的に神経新生が促進されたマウスを用いて、恐怖記憶獲得後の記憶処理過程における神経新生の役割について検討しました。その結果、海馬における継続的な神経新生の程度に依存して、恐怖記憶が海馬依存的な状態から非依存的な状態へと移行する速度が抑制されたり、逆に加速されたりすることが明らかになりました。

この成果は、海馬の神経新生を適切に制御することによって、恐怖記憶を保存する脳領域をコントロールできる可能性を示唆しており、トラウマ記憶が原因となる心的外傷後ストレス障害(PTSD)注2)などの精神疾患の新たな予防法・治療法開発への展開が期待できます。

本研究は、富山大学 大学院医学薬学研究部(医学)の北村 貴司 特命助教(元 三菱化学生命科学研究所 特別研究員)らと共同で行ったもので、本研究成果は、2009年11月13日(米国東部時間)発行の米国科学雑誌「Cell」に掲載され、同誌の表紙を飾ります。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。

戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)

研究領域 「精神・神経疾患の分子病態理解に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」
(研究総括:樋口 輝彦 国立精神・神経センター 総長)
研究課題名 恐怖記憶制御の分子機構の理解に基づいたPTSDの根本的予防法・治療法の創出
研究代表者 井ノ口 馨(富山大学 大学院医学薬学研究部 教授)
研究期間 平成19年10月〜平成25年3月

JSTはこの領域で、少子化・高齢化・ストレス社会を迎えた日本において社会的要請の強い認知・情動などをはじめとする高次脳機能の障害による精神・神経疾患に対して、脳科学の基礎的な知見を活用し、予防・診断・治療法などで新技術の創出を目標にしています。上記研究課題では、動物モデルを用いて恐怖記憶の制御の分子機構を明らかにし、その知見から得られる動物モデル・トラウマ体験者・PTSD患者まで一貫した理論的根拠をもとに、PTSDの新規かつ根本的な予防法と治療法の創出を目指します。

<研究の背景と経緯>

多くの記憶は当初、脳の海馬に蓄えられますが、時間の経過とともに記憶は海馬から大脳皮質に転送されパーマネントな記憶となると考えられています。すなわち、ある種の記憶の想起について最初は海馬依存的ですが、記憶獲得後の時間経過に伴い徐々にその海馬依存性は減少し、最終的に海馬を必要とせずとも記憶を想起できるようになります。つまり記憶形成過程において、記憶は一過的に海馬依存的となります。この期間は、マウスやラットでは1ヵ月、ヒトでは数ヵ月から数年です。また、記憶が海馬依存的な状態から海馬非依存的な状態へ移行するに伴い、大脳皮質依存的な状態へと切り替わると考えられています(図1)。しかし、どのような機構により記憶が海馬依存的な状態から海馬非依存的な状態へと移行するのかについては、魅力的な仮説はいくつか提唱されているものの、いまだ確かな答えは分かっていませんでした。

海馬神経回路は、錐体細胞層と歯状回の顆粒細胞層で構成されます(図2)。海馬歯状回では、成体においても、終生、神経細胞が生産され続けることが、ヒト、サル、ラット、マウスなど多くの動物種で知られています。そして、新たに誕生した神経細胞は、歯状回の顆粒細胞として機能的に神経回路に組み込まれます。

多くの先行研究によって、海馬の神経新生が記憶学習や気分障害に関与することが指摘されています。特に、海馬の神経新生が記憶の獲得に関与することを指摘する報告は多くあります。しかし一方で、海馬の神経新生が、記憶の長期的保持・維持に関与するかどうかを検討する研究は、これまであまりありませんでした。

海馬神経回路内で、次々と神経細胞が生産され続ければ、新生した神経細胞が既存の神経回路へ組み込まれてゆくことで、これまで海馬神経回路内で保持されていた記憶情報が攪乱され、消失する可能性も考えられ、生後の神経新生と記憶の長期的な保持との関係を調べることは重要な研究課題となります。

<研究の内容>

本研究グループは今回、物理的あるいは遺伝子改変技術によって生後の海馬神経新生が抑制されたマウス、もしくは海馬神経新生が促進されたマウスを用いて、恐怖記憶の長期的な保持率とその時の記憶想起の海馬依存性を検討しました(図3)。

具体的には、生後の海馬神経新生が低下したマウスとして、限局した頭部へのX線照射処置をほどこしたマウス、またはフォリスタチン注3)を前脳特異的に過剰発現させた遺伝子改変マウス(FSMマウス)を用い、海馬の神経新生が促進したマウスとして、豊富環境注4)で飼育したマウスを用いました(図3)。

これらのマウスを用いて、恐怖記憶の想起が海馬依存的であるか否かを検討するために文脈性恐怖条件付け注5)を行いました。マウスに恐怖の体験をさせ、一定時間経過後に、神経活動を不活性化する薬剤を海馬に注入し、直後にその恐怖記憶を想起できるか否かを調べました。すなわち、海馬の神経活動が不活性な状態でも想起すれば記憶は海馬非依存的になっており、想起できなければ海馬依存的な状態であることが分かります。

この実験により、以下のことが明らかになりました。

  1. 1) X線照射処置を受けて海馬の神経新生がほぼ消失したマウスは、恐怖記憶の海馬依存的期間が長くなっていました(図4)。
  2. 2) 遺伝的に海馬の神経新生が低下したFSMマウスもまた、恐怖記憶の海馬依存的な期間が長くなっていました(図4)。
  3. 3) 一方、豊富環境で飼育されて海馬の神経新生が2倍程度になったマウスでは、恐怖記憶の海馬依存的期間が短縮されていました(図5)。

以上の結果から、記憶想起の海馬依存的期間が、さまざまな処置や状況に影響を受けること、さらに上記1)〜3)のそれぞれ独立した相関的実験証拠から、海馬の神経新生の活発さが恐怖記憶の海馬依存的期間を決定する重要な要因の1つであることを、世界に先駆けて明らかにしました(図6)。

<今後の展開>

本研究成果は、海馬の神経新生を適切に制御することができれば、恐怖記憶が保存される脳領域をコントロールできる可能性を示唆しています。このことから、恐ろしい体験や圧倒的な体験から精神的に外傷を受け、それによって強い感情的反応が症状として現れ長期的に持続するPTSDなどのトラウマ記憶が原因となる精神疾患の新たな予防法や治療法の開発への展開が期待されます。

また基礎研究の面では、海馬で新生された神経細胞がどのように振舞うことで記憶が海馬依存的な状態から、他の脳領域である大脳皮質依存的な状態(海馬非依存的)となってゆくのかが、今後の重要な課題となります。

<参考図>

図1

図1 学習後の時間経過に伴い、記憶を想起する際に必要な脳領域が変化する

マウスにおける一過的海馬依存性のモデル図。学習1日後では、記憶を想起する際、海馬依存的であるが、時間の経過とともに海馬依存性は徐々に減少し、大脳皮質依存性が増加する。

図2

図2 海馬の断面図と、歯状回における神経細胞の新生

海馬は2つの神経細胞層より成り立ち、上側の細胞層が錐体細胞層、「く」の字型の細胞層が歯状回顆粒細胞層(この図では青色の「>」型)。青色は細胞の核を示している。「>」型の歯状回の内側にある赤い点々が、生まれたばかりの神経細胞を示している。歯状回に限局して神経細胞の新生が起きていることが分かる。

図3

図3 野生型マウス、X線照射マウス、FSMマウス、豊富環境マウスの海馬歯状回における神経新生の程度

赤色は神経細胞体全体を示している。緑色は新たに生まれてきた神経細胞を示している。野生型マウスに比べ、豊富環境マウスの歯状回では、緑色に染まった細胞の数が多いのに対して、X線照射マウス、FSMマウスの歯状回では、緑色に染まった細胞がほとんど観察されなかった。

この結果は、豊富環境飼育により海馬の神経新生が増加している一方で、X線照射処置、フォリスタチン発現により海馬の神経新生が低下していることを示している。

図4

図4 神経新生による恐怖記憶の海馬依存性の制御

野生型マウスでは、28日後の記憶想起は海馬の働きを必要としなかったが、X線照射マウスやFSMマウスでは28日記憶の想起は海馬の働きを必要とした。

図5

図5 神経新生による恐怖記憶の海馬依存性の制御

野生型マウスでは、7日後の記憶は部分的に海馬依存的であるが、豊富環境下で飼育されたマウスでは7日後の記憶は海馬非依存的であった。

図6

図6 本研究のまとめ

横軸:学習後の時間経過(日)。縦軸:「海馬の神経活動を麻痺させたマウスのすくみ反応」を「海馬の神経活動が正常なマウスのすくみ反応」で割った値を表す。数値が0に近く低ければ(下方)恐怖記憶の想起が海馬依存的であり、数値が1に近づけば(上方)記憶の海馬依存性は減少する。野生型マウスでは、時間経過による海馬依存性の減少が見られ、学習後28日で記憶想起は海馬非依存的となったが、X線照射マウス、FSMマウスでは、海馬非依存性に移行する速度が遅い。逆に、豊富環境マウスでは、移行速度が野生型に比べ速かった。

<用語解説>

注1) 神経新生
脳の中には、1,000億個の神経細胞と、その10倍の数のグリア細胞が存在し、精密なネットワークを形成している。ネットワーク構築のためには、脳の細胞の元になる細胞(神経幹細胞)が多数分裂して数を増やし、神経細胞やグリア細胞に変化する(分化する)ことが必要である。この過程を「神経新生」と呼ぶ。すなわち、神経幹細胞は分裂して自己を複製し、その存在を維持しつつ、神経細胞やその他の脳を構成する多様な細胞へ分化している。海馬では神経幹細胞は海馬歯状回顆粒層下層と呼ばれる特定の領域で脳が完成した生後も存在し、終生、新しい神経細胞が生産され続けていることが分かっている(図2)が、その程度は加齢とともに減少することも知られている。
注2) 心的外傷後ストレス障害(PTSD:posttraumatic stress disorder)
恐ろしい体験や圧倒的な体験から精神的に外傷を受け、それによって強い感情的反応が症状として現れる長期的に持続する障害。戦争、災害、事故、強盗、レイプ、幼児期の虐待などがトラウマ的体験としてあげられる。PTSDでは、その種のできごとに対して、恐怖、無力感、戦慄などの強い感情的反応を伴い、長い年月を経た後にも、このようなストレスに対応するような特徴的な症状が見られる。恐怖体験に類似する、もしくは連想させるようなもの人に対しても強い拒否を示し、社会生活に支障が出てくる。
注3) フォリスタチン
フォリスタチンはアクチビン作用を打ち消す。アクチビン、フォリスタチンは卵胞刺激ホルモン(FSH)を調節する因子として発見されたが最近、生殖領域のみならず細胞の分裂、分化誘導、組織修復などさまざまな生命活動にかかわっていることが分かっている。本研究グループは、フォリスタチンが海馬の神経新生を抑制する働きを持つことを明らかにした。
注4) 豊富環境
さまざまな物体や廻し車のある飼育ケージ(豊富環境)でマウスを飼うと、通常の飼育ケージで飼育されたマウスに比べて海馬の神経細胞の新生が促進される。豊富環境下の飼育は、生後脳の海馬の神経新生を促進する方法として良く用いられる。
注5) 文脈性恐怖条件付け
マウスを電線が敷いてある箱の中に入れ、その電線から電気ショックを与えると、マウスはその箱が危険であることを覚え、再び同じ箱の中にマウスを入れると、すくみ反応を示すようになる。箱とショックの連合記憶を忘れたマウスは、同じ箱に入れられてもすくみ反応を示さない。すくみ反応を観察することで、恐怖記憶を覚えているか否かを判定することができる。文脈性恐怖条件付けは、海馬依存的な学習である。

<論文名>

“Adult Neurogenesis Modulates the Hippocampus-Dependent Period of Associative Fear Memory”
(生後の海馬神経新生は、恐怖連合記憶の海馬依存的期間を調節する)
doi: 10.1016/j.cell.2009.10.020

<お問い合わせ先>

<研究に関すること>

井ノ口 馨(イノクチ カオル)
富山大学 大学院医学薬学研究部 医学部生化学講座 教授
〒930-0194 富山県富山市杉谷2630番地
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<JSTの事業に関すること>

河村 昌哉(カワムラ マサヤ)
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