神経細胞にはシナプス注1)と呼ばれる神経回路のスイッチ素子が1細胞当たり数万個あり、他の神経細胞と情報のやり取りをしています。一つひとつの神経細胞は多くの記憶に関わっていますが、記憶ごとに異なるシナプスを使い分けることで、個々の記憶を混同せずに正確に保存していると考えられています。長期間保存される記憶では、その記憶に対応する特定のシナプスに細胞体から記憶関連たんぱく質が配達されることでそのシナプスの働きの変化が持続し、記憶が正しく長期間保存されると考えられます。ところが、1細胞あたり数万個存在するシナプスのうち、どのような仕組みで特定のシナプスのみに記憶関連たんぱく質を配達し、働かせているのかは分かっていませんでした。これを説明するためにシナプスタグ仮説(図1)が提唱されていますが、タグの実体が不明のうえ、本当にそういう仕組みがあるのか実証されていませんでした。
本研究グループは、Vesl-1Sという記憶関連たんぱく質注2)に緑色蛍光たんぱく質(GFP)注3)を融合させることで、神経細胞内における記憶関連たんぱく質の局在を可視化しました(図2)。この分子の挙動を解析した結果、記憶関連たんぱく質は細胞内全てに配達された後、その時に使用されていたシナプスだけに取り込まれることが明らかになり、仮説が正しいことが実証されました。さらに、シナプスタグの実体は、シナプス後部のスパイン注4)の入り口にあるゲートの開閉であることを発見しました(図2、3)。
この成果により、心的外傷後ストレス障害(PTSD)治療法の開発に大きく前進するとともに、連合記憶注5)に問題がある精神疾患の治療法の開発、脳卒中などの後のリハビリテーション効率の改善、脳型記憶素子の開発など多くの応用研究が発展するものと期待されます。
本研究成果は、2009年5月15日(米国東部時間)発行の米国科学雑誌「Science」に掲載されます。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 | : | 「精神・神経疾患の分子病態理解に基づく診断・治療へ向けた新技術の創出」 (研究総括:樋口 輝彦 国立精神・神経センター 総長) |
研究課題名 | : | 恐怖記憶制御の分子機構の理解に基づいたPTSDの根本的予防法・治療法の創出 |
研究代表者 | : | 井ノ口 馨(三菱化学生命科学研究所 グループリーダー) |
研究期間 | : | 平成19年10月~平成25年3月 |
<研究の背景と経緯>
ある出来事を経験して記憶が形成される時、シナプスを介した神経細胞間の情報伝達効率が変化することが知られています。この変化はシナプス部にあるたんぱく質の修飾によって起こり、数分から数時間で消失します。一方、強烈な経験では長期記憶注6)が形成されますが、この時はシナプスを介した情報伝達の効率変化も数日以上にわたって維持されます。この時に細胞体で遺伝子発現の変化注7)が起き、そこで合成されたたんぱく質が樹状突起注8)を経由してシナプス部に配達されて働くことで、伝達効率が長期的に変化します。これらの記憶関連たんぱく質は、その記憶に対応した特定のシナプスだけに配達され、そのシナプスの伝達効率のみを長期的に変化させることで、長期記憶を正確に保存すると想定されます。
ところが、1つの神経細胞には数万個のシナプスがあるため、どのような仕組みで特定のシナプスだけに配達されるのかが未解決の大きな問題でした。たとえて言うなら、東京の中央郵便局(細胞体)から北海道・稚内(特定のシナプス)宛に配達される郵便物が、沖縄や大阪には配達されずに、どのようにして稚内という目的地に正確に配達されるのかという疑問です。郵便とは異なり、たんぱく質自体には配達先情報は含まれていません。
この疑問に対する答えの1つとして、シナプスタグ仮説が提唱されています。それによると、初めに出来事を経験した時に活動した特定のシナプスにシナプスタグと呼ばれる目印が付きます。一方、細胞体で合成された記憶関連たんぱく質はいったん全てのシナプスに輸送されますが、目印が付いたシナプスに配達されたものだけが目印に捕捉されて機能するという考えです(図1)。すなわち、郵便物は稚内にも沖縄や大阪にも配達されますが、稚内の郵便局だけがそれを開封するキーを持っているので読むことができるわけです。シナプスタグ仮説は、覚えた時と同じ内容の記憶を保持する、すなわち記憶の正確さと安定性に関わる仕組みをうまく説明していますが、この仮説が正しいかどうかは実証されていませんでしたし、その目印の実体も不明でした。
<研究の内容>
三菱化学生命科学研究所の井ノ口 馨グループリーダーと岡田 大助 主任研究員らの研究グループは今回、世界に先駆けてこの仮説の妥当性を実証しました。長期的なシナプス変化が起きる時に、細胞体で合成される記憶関連たんぱく質の1つVesl-1Sたんぱく質にGFPを融合させたたんぱく質をモニターとして、ラット脳の海馬の神経細胞にVesl-1Sを発現させました。GFP蛍光を指標として、この融合たんぱく質の局在場所をリアルタイムで観察しました(図2)。
その結果、(1)細胞体で合成されたたんぱく質は、まず全ての樹状突起に万遍なく輸送されること、(2)シナプスが活動していない場合は、樹状突起部に留まっていること、(3)シナプスが活動した時は、活動したシナプスのスパインだけに選択的に取り込まれること、(4)取り込みは、記憶形成に重要であることが知られているNMDA型グルタミン酸受容体注9)により調節されていること――が分かりました。これらの結果から、シナプスタグ仮説が正しいことを初めて実証しました。また、シナプスタグの実体は、樹状突起からスパインへのたんぱく質の取り込みの制御であることも判明しました(図2、3)。今回の発見で、記憶を正確に安定して保持するための仕組みが明らかになりました。
<今後の展開>
シナプスタグ機構は、脳の情報処理の正確さを保証する根幹の仕組みと考えられるため、記憶の形成に限らず、脳がどのように感じ、覚え、考え、応答するのかを知るための研究に大きなインパクトを持ちます。さらに、下記のように数多くの波及効果が期待できます。




<参考図>

図1 シナプスタグ仮説

図2 蛍光たんぱく質の可視化

図3 シナプスタグの実体
<用語解説>
注1)シナプス
神経細胞同士が数十ナノメーター間隔で接近した部位で、神経細胞同士の情報伝達が起きる場所である。
注2)記憶関連たんぱく質
長期記憶が形成される時に神経細胞の細胞体で合成され、記憶の保持に関わる働きをするたんぱく質のこと。
注3)緑色蛍光たんぱく質(GFP)
オワンクラゲが作る蛍光を発するたんぱく質。他のたんぱく質と融合させても蛍光を発する機能は変わらないので、融合たんぱく質を細胞内に導入することで、融合相手のたんぱく質の細胞内の居場所をリアルタイムで明らかにすることができる。下村 脩 ボストン大学名誉教授が発見、2008年度のノーベル賞を受賞した。
注4)スパイン
樹状突起棘ともいう。哺乳類脳の主な興奮性シナプスでシナプス伝達の受け手側となる樹状突起にある径1ミクロン弱の突起。細胞体からシナプスに、たんぱく質などの物質を送り届けるには、樹状突起を通ってまずスパインに入り、それから突起の先端にあるシナプスに運ぶ必要がある。
注5)連合記憶
条件反射のように本来独立した複数の刺激応答を結び合わせて記憶すること。
注6)長期記憶
ほ乳類では一日以上続く記憶で、短期記憶とは異なり神経細胞での遺伝子の発現やたんぱく質合成を必要とする。一生続くような記憶も長期記憶の分類に入る。
注7)遺伝子発現の変化
細胞核にある遺伝子がコードするたんぱく質のうち、一部は細胞が受ける刺激に応じて随時転写翻訳されて新しく発現する。この仕組みにより細胞は刺激に対応することができる。
注8)樹状突起
他の神経細胞からの情報を受け取るために、神経細胞が細胞体から枝のように分岐させた突起のこと。
注9)NMDA型グルタミン酸受容体
グルタミン酸受容体の一種。学習や記憶、さらに脳虚血に深く関わる受容体である。脳を中心に生体内に広く分布し、神経伝達物質であるグルタミン酸の結合により陽イオンを透過するイオンチャネル型受容体である。
<論文名>
“Input-specific spine entry of soma-derived Vesl-1S protein conforms to synaptic tagging”
(細胞体由来Vesl-1Sたんぱく質の入力特異的な樹状突起棘への進入はシナプスタグ仮説に合致する)
doi: 10.1126/science.1171498
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>
井ノ口 馨(イノクチ カオル)
株式会社 三菱化学生命科学研究所 記憶形成研究グループ
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