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平成20年5月27日

科学技術振興機構(JST)
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東北大学
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分子振動を単一分子で検出する技術の開発に成功

(ナノテクノロジー分野で分子特性測定などの化学分析の実用化へ)

 JST基礎研究事業の一環として、東北大学 多元物質科学研究所の米田 忠弘 教授と岡林 則夫 研究員らのグループは、単一分子を対象とした化学分析である走査トンネル顕微鏡―非弾性トンネル分光(STM-IETS)の検出効率を飛躍的に向上させ、従来1億個以上の分子の集合で得られていたのと同等な精度のスペクトルを単一分子で得る新しい振動分光注1)技術を開発しました。これは、ナノテクノロジー分野の発展に必須とされる、化学分析の実用化を前進させるものです。
 振動分光は、分子の化学分析において標準とされる計測手法の1つです。この方法で精度よく分析を行うためには、その分子振動の中で10個以上ある主だった振動スペクトル上のピークを総合的に判断する必要があります。しかし、従来のSTM-IETSでは1〜2個のピークしか検知することができず、そのため化学分析に使う見通しが立っていませんでした。
 本研究グループは、装置(図1)の改良によって低温での安定した高分解能STM-IETS信号測定を可能にしたうえ、分子と吸着する基板との結合の強さを最適化することで、高感度な振動強度注2)の検出を実現しました。この技術により、ナノテクノロジーでの化学分析の重要な手法になるとみられるIETSによる、分子振動の標準スペクトルのデータベースを構築することが可能となりました。また、優れた空間分解能を生かして大きな生体分子などの局所部位の化学分析に適用されることも期待されます。
 本研究成果は、2008年5月30日(米国東部時間)発行の物理科学専門誌「Physical Review Letters」に受理され、オンライン版で近日中に公開されます。

本成果は、以下の事業・研究領域・研究課題によって得られました。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域 「物質現象の解明と応用に資する新しい計測・分析基盤技術」
(研究総括:田中 通義 東北大学 名誉教授)
研究課題名 低次元ナノマテリアルと単一分子の振動分光・ESR検出装置開発
研究代表者 米田 忠弘(東北大学 多元物質科学研究所 教授)
研究期間 平成16年10月〜平成22年3月
 JSTはこの領域で、物質や材料に関する科学技術の発展の原動力である新原理の探索、新現象の発見と解明に資する新たな計測・分析に関する基盤的な技術の創出を目指しています。上記研究課題では、走査トンネル顕微鏡を主な手法として、トンネル電流を用いた単一スピンの検出方法の確立を目指しています。

<研究の背景と経緯>

 ナノテクノロジー関連分野では、素子注3)を原子単位で作製することと、有機分子や生体分子の電子材料への応用が重要な研究課題として位置づけられています。この両者の成果を組み合わせた特徴的な素子として単一分子素子が注目されています。これは、微細加工技術の進歩により小さい分子同士に橋架けすることができる1nm程度の隙間を持った電極が開発されたことによるものです。つまり、分子同士を直接に橋架けした素子が作製可能となったのです。単一分子素子を用いたその特性測定では、従来の多数の分子で作られた分子素子とは全く異なる興味ある特性が報告され、その報告数も増大しています。
 しかし、電極の種類や実験者に依存して測定データのばらつきが大きいことが指摘されており、電極間の微小領域の分析なしには進展が限られてしまうと考えられています。ところが、電極間の微小領域の分析には従来の分析技術では対応できない困難さがあります。つまり、電極間に置かれた分子の化学状態分析は必要不可欠なのに、従来の測定法は一般的に1億個の分子の集団でしか使えず、単一分子素子やごく少数の分子集団での化学分析は不可能です。また、原子を観察できる電子顕微鏡も有機分子に対してはダメージが大きく、必ずしも有効な手法とはなっていませんでした。
 微小領域での化学分析手法の中で、実用可能であると考えられている数少ない候補として、非弾性トンネル分光(IETS)があります(図2)。単一分子素子では電極が1nm程度に接近しているため、直接の電気的接触がなくてもトンネル電流が流れ、このトンネル電流が電極にはさまれた分子の状態について情報を与えてくれます。具体的には、分子の特定部位の伸縮、角度のはさみ振動注4)などの分子振動の情報を得ることができます(図3)。分子振動の情報は既に光学スペクトルを用いた優れたデータベースがありますが、IETSを用いた測定についても同様にデータベースが構築できれば、単一の分子についてのIETS情報から、電極と分子の接合作製過程で分子が破壊されていないかなどの情報について適否判断・修正が可能であり、総合的な電極評価などに役立ちます。
 実際に単一分子素子電極のIETSによる評価は始まっており、アルカンチオール分子注5)を標準分子として電極間に橋架けし、IETSを用いて分子の様子を探ることで電極そのものの評価を試みた報告がなされています。
 しかし、用いられた単一分子素子電極の種類によって得られるIETSスペクトル注6)が非常にばらつきやすいことから、単一分子素子電極の有効性に対して賛否が分かれています。最大の理由は、IETSスペクトルそのものに標準スペクトルがないことです。電極をつけた後で、分子がどのような状態かを知る方法がなくては、スペクトルの正当性の議論は不可能です。
 一方、走査型トンネル顕微鏡(STM)は原子分解能を持つ顕微鏡であるだけではなく、トンネル電子の原子分解能を持った電子源でもあります。基板の金属と探針を2つの電極と見立てたSTM-IETSは、電極としての基板金属とSTMのティップを近づけるより以前に、分子がどのような状態で存在するかを十分に評価することが可能、という非常に優れた特徴を持ちます。分子の状態を前もって評価できることからIETS標準スペクトルの作成が可能となります。しかし、過去の報告では、分子振動の中で10個以上ある主だった振動スペクトル上のピークのうちSTM-IETSでは1〜2個のピークしか検知することができず、そのため化学分析に使う方法として、まだ確立されていません。

<研究の内容>

 本研究グループは今回、STM-IETSを用いた単一分子振動分光において、通常の化学分析に用いられる電子エネルギー損失分光注7)(EELS)装置とほぼ同等の分解能と検出感度を持ったスペクトルを得ることに成功しました。電極を橋架けする分子としてアルカンチオール分子を用いました。その分解能とピーク検出感度において、世界最高水準の単一分子振動分光が得られたと考えられます。
 今回の測定データは、単一分子の測定で1億個以上の分子の集合体で得られたのと同様の分解能をもって、10個以上の振動スペクトル・ピークを得たものです。スペクトルに示される多様な振動モードの高分解能なピークの振る舞いを分析することで、化学分析が可能であることを世界で初めて示しました(図4)。今回得られた測定結果は、論争が続いていたIETSスペクトルから分子へのダメージの少ない電極を作製する際に必要な標準スペクトルとなります。

 この測定が可能となった実験的な背景は以下の通りです。
 (1)低温で安定した高分解能IETS信号測定が可能なSTM装置に改良できたこと
 (2)分子と吸着基板の結合の強さを最適化したこと

 (2)については、従来のSTM-IETSにおいて振動モードの検出感度が低いのは、分子が金属に比較的強く吸着している状態で測定されていたためであり、下地との結合が弱いほど検出効率が高くなるとの仮説を立てました。今回の実験結果は、アルカンチオール分子が立って吸着している状態(図3)が高い検出感度につながったことによるものと考えられます。このことは、測定したい分子が金属などの下地に強く結びつかない状況を作れば、単一分子でも十分な検出感度が得られることを示唆しています。

<今後の展開>

 今後、ナノテクノロジーの分析手法の大きな柱になると期待されるIETSの標準スペクトルのデータベース構築に貢献するとともに、分子の振動状態は局所的であることから、大きな分子の一部分の分析など、内部構造を持った分子の化学分析などにも応用されることが期待されます。

<参考図>

図1
図1図1

図1 今回試作したSTM-IETS装置の概略

 (上)全体図。デュワーとよばれる液体ヘリウム寒剤のポットが銀色に見えます。そのデュワーの内部に真空槽が置かれており、その内に装置本体が入っています。
 (下・左)装置本体。低温(1K以下に)冷却される銅のプレートの下にSTMのヘッドが吊り下げられています。
 (下・右)模式図。冷却は希釈冷凍機とよばれるタイプのものでヘリウム3(通常のヘリウムはヘリウム4であり、その同位体)がヘリウム4の中で気化する気化熱を利用して低温にします。

図2

図2 走査トンネル顕微鏡(STM)の模式図

 トンネル電子は原子1個、約2.5オングストロームの範囲にほぼ収まる局所的電流です。探針と基板は10オングストローム以下のギャップを持ちます。

図3図3

図3 STM-IETSの測定に用いたアルカンチオール分子(末端の硫黄S原子が金と結合し、
8個の炭素からなる鎖を持った分子)の吸着構造の断面模式図(左)とSTMで観察した像(右)

STM像での1つの点が分子1個に相当します。

図4

図4 分子1億個以上の平均で得られた電子エネルギー損失分光スペクトル(上)
と分子1個で今回得られたSTM-IETSのスペクトル(下)の比較

 分解能と信号・ノイズ比ともに同等のスペクトルが得られています。下図中のA〜MはSTM-IETSで検出されたピーク

<用語解説>

注1)振動分光
 化学分析に用いられる手法で、分子の特定の部位の結合距離が伸縮したり、結合のはさみ角度が振動したりする周波数を測定する手法です。分子の同定には欠かせない手法となっていますが、赤外光の吸収や可視光のラマン散乱を利用する光を用いた手法のほかに、電子を照射し振動励起で損失するエネルギーを検知する電子エネルギー損失分光(EELS)などが一般的に用いられます。しかし、いずれの手法も少なくとも数億個の分子の集合で測定しない限り、強度が不十分で有意義な信号が得られません。

注2)振動強度
 振動が励起される確率に相当し、振動励起のメカニズムに由来する選択則と呼ばれる法則と強く関係しています。実際の分析では、この選択則は分子の対称性や分子の配向を決定するために欠かすことのできない情報です。

注3)素子
 演算や記憶を行う基本単位。現在主流となっているシリコン素子は、シリコンなどの半導体、シリコン酸化膜や窒化膜などの絶縁物、銅やアルミといった金属で作成されています。しかし、次の世代の素子ではボトムアップ方式で自己組織化的に構造が形成されることに注目が集まり、有機分子を電子材料として用いることが考えられています。分子を電子材料に用いた分子素子は以前より研究されており、ナノテクノロジーでは特に単一の分子を用いた単一分子素子が注目されています。微細加工の精度が向上したことがその背景にありますが、多数の分子ではなくたった1つの分子が演算や記憶を行うことになります。究極の微細化というだけでなく、単一の分子を用いることで分子固有の性質が明瞭に現れ、多くの新規の機能を持った動作が報告されています。

注4)はさみ振動
 分子の振動モードの1つです。例としてH-O-Hで表される水分子の場合、分子の形は直線ではなく、3つが成す角度 θ ≈ 114°で曲がった形状をしています。 θ が増減すると、まるではさみを開閉するような動きをします。この運動は分子の振動モードのひとつであり、「はさみ振動」と呼ばれています。「はさみ振動」は、分子の結合の手の長さが変化する「伸縮振動」と比較して、振動のエネルギーが低く違ったエネルギー領域に現れますが、周りの化学的な環境に非常に敏感で、実験的にも高い精度で求めることができるため、化学結合の状態を調べるために広く用いられます。

注5)アンカチオール分子
 末端に硫黄S原子を持ち、そのため不活性金属である金の表面でも強い結合力を持ちます。アルキル鎖は横方向にはたらく力を一定にしてくれるので、規則正しい構造が極単純な方法で形成されることから、さまざまな応用に用いられ、分析もなされています。単一分子素子の電極評価用標準分子としても用いられる分子です。

注6)IETSスペクトル
 非弾性トンネル分光の略。トンネル効果は古典的には超えられないエネルギー障壁があってもある確率で粒子が行き来する効果ですが、そのトンネル現象の最中に他の現象を引き起こすことも可能です。たとえば2つの電極の間に分子が挟まれていて、2つの電極の間を電子がトンネルする場合、分子の振動が励起されることなどが考えられます。その場合、トンネルしてくる電子のエネルギーは引き起こされた振動モードのエネルギー分だけ小さくなっています。損失したエネルギーの大きさを測定することで、トンネル過程で引き起こされた振動モードを同定し分子の化学分析に使おうとするものです。

注7)電子エネルギー損失分光
 振動分光の測定手法の1つで、分子に電子を照射し、戻ってくる電子のエネルギーを測定します。電子が分子の振動を引きおこせば振動エネルギーの分だけエネルギーを損失するので、どの振動モードが励起されたかを判断することができます。光を用いず、すべて電子で測定する手法であるという点で、IETSと共通しています。

<論文名>

Inelastic electron tunneling spectroscopy of an alkanethiol self-assembled monolayer using scanning tunneling microscopy
 (走査トンネル顕微鏡を用いたアルカンチオール自己組織化膜の非弾性トンネル分光)
doi: 10.1103/PhysRevLett.100.217801

<お問い合わせ先>

米田 忠弘(コメダ タダヒロ)
東北大学 多元物質科学研究所
〒980-8577 仙台市青葉区片平2-1-1
Tel: 022-217-5368 Fax:022-217-5371
E-mail:

瀬谷 元秀(セヤ モトヒデ)
科学技術振興機構 戦略的創造事業本部 研究領域総合運営部
〒102-0075 東京都千代田区三番町5 三番町ビル
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