信号を運ぶ波の代表"光"、物質を構成する粒の代表"電子"、対照的なこれらの間で状態転写に成功したのは画期的なことです。特に、光通信に利用される光学領域の光の状態を、電子デバイスに利用される半導体の電子に転写したのは初めてのことです。
未来の通信技術として量子情報通信(注1)が近年脚光を浴びていますが、その基本原理である"量子テレポーテーション" (注2)と呼ばれる遠隔地への量子状態の転写については現在、光を主体とした原理実証の段階にあり、メモリーや集積化に適した半導体中の電子への転写が望まれていました。今回、半導体の構造を工夫することにより、電磁場である光の偏波状態と電荷の回転で生じる電子のスピン状態を1対1に対応させることに成功しました。これまでは一都市内に留まっていた量子通信距離を都市間や国際間に拡張するためには量子中継器が不可欠です。本研究成果は量子中継器の実現に道を開くものと期待されます。
本研究成果は、米国学術雑誌「Physical Review Letters」の電子版で近日公開されます。
戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST) | ||
研究領域 | : | 「量子情報処理システムの実現を目指した新技術の創出」 (研究総括:山本喜久 情報システム研究機構国立情報学研究所量子コンピューティング研究部門教授/スタンフォード大学応用物理・電気工学科 教授) |
研究課題名 | : | 「単一光子から単一電子スピンへの量子メディア変換」 |
研究代表者 | : | 小坂 英男 東北大学 電気通信研究所 准教授 |
研究期間 | : | 平成16年度~平成21年度 |
<研究の背景と経緯>
絶対に安全な情報通信手段として量子情報通信が近年、注目を集めています。量子情報通信あるいは量子暗号通信は盗聴されたことを確実に判断することが可能なため、通信ネットワークの絶対的な安全性を保証することができるからであり、高度情報化社会の救世主として期待されています。しかし、このように優れた特性を持つ量子暗号通信も、従来技術で通信が可能な距離は約100kmに留まり、同一都市内に設置された端末間の通信に限られています。この限界を打破する方法として量子中継器の開発が望まれています。通常の光通信に使われている中継器とは異なり、量子中継器は光の粒(光子)の持つ量子性(注3)を忠実に遠隔地に転送する"量子テレポーテーション"と呼ばれる通信手順をサポートする必要があります。この量子テレポーテーションの要素機能として量子もつれ検出(注4)がありますが、これを実現するには、通信メディアとなる光子の量子性を演算メディアとなる電子の量子性に転写し保存することが重要です(図1)。このように光子の量子性を保存可能な量子メディアに変換することができれば、光ファイバーの伝送損失に制限されることなく、ネットワークの通信スループットを拡張することが可能となります。
通信デバイスの主要部は半導体でできていますが、半導体中の電子の量子性はあまり長く維持できないことが分かっています。一方、電子の回転に関わる自由度であるスピン(角運動量)は、その量子性をある程度長く維持することが可能です。したがって、光ファイバーによって遠方から搬送される光子の量子性を、半導体中の電子スピンの量子性に転写することが重要となります。このような量子状態転写は、真空中の電子や原子では比較的容易に実現できますが、数多くの電子で構成される半導体などの固体では今まで実現不可能と考えられていました。
<研究の内容>
本研究チームは、化合物半導体(注5)であるGaAs(ガリウムヒ素)とAlAs(アルミニウムヒ素)で構成されたナノスケールの量子井戸(注6)に、電子のスピンを制御するための工夫を施し、光の偏光によって表される位相情報を半導体中の電子のスピンによって表される位相情報に転写することに初めて成功しました。光子が物質に吸収されると電子と正孔(注7)の2つの粒子が対となって生成されます。この際、光子の偏光状態は電子と正孔のスピン状態に転写されます。この仕組みは光子と電子・正孔間の角運動量の保存則に起因するもので、光学選択則と呼ばれます。ところが、正孔スピンの位相情報は電子スピンのそれに比べ、急速に失われていくことが知られており、正孔ともつれ合っている電子の位相情報も同時に失われていくという問題点がありました。これを解決するために、本チームは通常用いられる重い正孔ではなく、量子井戸面内に印加した磁場によって2つのエネルギー状態に分裂する際の軽い正孔の1つを選択的に励起しました。そして、この際の電子のスピン状態が1つのエネルギーに重なっているように工夫しました(図2)。この工夫により、電子と正孔のもつれ合いは解消され、光の位相情報は電子スピンの位相情報だけに転写することが可能となりました(図3および4)。
<今後の展開>
今回の成果により、光の量子性は電子スピンの量子性へと転写できることが分かりました。物質を素通りしやすい光の量子情報を、処理や記憶に適した電子に転写することにより、欲しいときに情報を引き出し処理することが可能となります。その一例として、量子情報通信に不可欠な量子中継器の実現が期待され、情報ネットワークの安全性向上に大きく寄与することになると思われます。
<参考図>

図1.光子から電子スピンへの量子状態転写の仕組み

図2.量子状態転写に必要なバンド構造の条件

図3.量子状態転写の実証をするための時間分解カー回転の実験結果

図4.光から電子スピンへのコヒーレンスの転写を実験結果
<用語解説>
注1)量子情報通信
光の持つ量子性を利用することにより、盗聴されたことが確実に分かる絶対安全な暗号通信。
注2)量子テレポーテーション
遠く離れた場所に古典的な情報を転送することで量子もつれの効果により、量子状態を転送すること。
注3)量子性
量子的なコヒーレンスとも呼ばれるもので、量子に特徴的な干渉を示す性質。
注4)量子もつれ検出
量子もつれとは、2つ以上の量子の状態が互いに量子的な相関を持っていることであり、ここでいう量子もつれ検出とは、2つの量子がどのような相関を持っているかを特定することを指す。
注5)化合物半導体
電子デバイスにおいて最も広く用いられている半導体は、IV族半導体であるケイ素(Si)だが、それに対してIII族原子であるインジウム(In)、ガリウム(Ga)、アルミニウム(Al)と、V族原子であるリン(P)、ヒ素(As)、窒素(N)などを組み合わせた半導体をIII-V族化合物半導体と呼ぶ。III-V族化合物半導体は、発光ダイオードやレーザーなどの発光素子やHEMTなどの高速電子デバイスに応用されている。
注6)量子井戸
電子あるいは正孔の量子性を発現させるほどに薄い薄膜。ここではGaAs層がよりエネルギーの高いAlGaAsバリアー層に挟まれており、電子および正孔のスピン量子状態を制御している。
注7)重い正孔、軽い正孔
正孔とは物質中で電子のいなくなった穴を指す。半導体などの固体ではその質量に2種類あり、それぞれ重い正孔、軽い正孔と呼ばれる。
注8)ゼーマン分裂
磁場を印加したときに生じるエネルギー分裂。
<掲載論文名>
"Coherent transfer of light polarization to electron spins in a semiconductor"
(光の偏光から半導体中の電子スピンへのコヒーレントな転写)
<お問い合わせ先>
小坂 英男(こさか ひでお)
東北大学 電気通信研究所 准教授
〒980-8577 仙台市青葉区片平2-1-1
Tel: 022-217-5072, FAX: 022-217-5071
E-mail:
瀬谷 元秀(せや もとひで)
独立行政法人 科学技術振興機構
戦略的創造事業本部 研究推進部 研究第一課
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