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平成19年10月11日

科学技術振興機構(JST)
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 東京大学医科学研究所
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ピロリ菌の持続感染戦略を発見

(抗生物質とは異なる新しい治療法開発への布石)

 JST(理事長 北澤宏一)と東京大学医科学研究所(所長 清木元治)は、胃に感染したピロリ菌が、その感染維持のため、胃粘膜上皮細胞の代謝回転を抑制しているメカニズムを発見しました。本研究はスナネズミを使って行ったものです。
 胃や腸の消化管の上皮細胞は絶えず新生と死を繰り返し、数日以内で入れ替わる代謝回転(ターンオーバー)を行っています。消化管に感染する多くの病原細菌は上皮細胞を感染の足場として利用しているため、上皮細胞の迅速なターンオーバーは、宿主側からみて病原体の感染初期に足場となる上皮細胞を除去する感染防御システムとして重要である、と考えられています。
 本研究では、ピロリ菌が胃粘膜上皮細胞内へ分泌するCagAたんぱく質(注1)が、宿主である上皮細胞内にあるシグナル伝達分子のERKキナーゼ(注2)を活性化させて、アポトーシス細胞死(注3)の抑制因子であるMCL1たんぱく質(注4)の発現を促進することにより、胃粘膜の細胞死を抑制し、その結果、上皮細胞のターンオーバーを遅らせることを明らかにしました。
 ピロリ菌が胃粘膜に持続感染することは、感染患者の胃炎や胃潰瘍、胃がんの発症と密接に関連しています。世界の人口の約半数がピロリ菌に感染していますが、抗生物質による除菌では耐性菌による不成功例も多く、新たな治療法の開発が望まれています。本研究グループは最近、赤痢菌においても宿主の腸上皮細胞のターンオーバーを遅らせるメカニズムを解明しています(Cell, Aug 24, 2007)。これと合わせ、本成果は一群の粘膜病原細菌が持続感染を確立するために共通戦略を持つことを初めて提起するものであり、抗生物質とは異なる新しい治療法開発への布石となるものと期待されます。
 本成果は、JST戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CREST)「免疫難病・感染症等の先進医療技術」研究領域(研究総括:岸本忠三)の研究課題「病原細菌の粘膜感染と宿主免疫抑制機構の解明とその応用」の研究代表者・笹川千尋(東京大学医科学研究所 教授)、三室仁美(同 助教)らによって得られたもので、2007年10月11日(米国東部時間)発行の米国科学雑誌「Cell Host & Microbe」(Cell姉妹誌)に掲載されます。

<研究の背景>

 全世界の人口の約半数がピロリ菌に感染しており、本菌は日本でも50代以上の半数以上が感染している大規模感染症の原因菌です。ピロリ菌が胃粘膜に持続感染すると胃炎や胃潰瘍が発症します。さらに炎症が持続することで、胃MALTリンパ腫(粘膜関連リンパ組織に生じるBリンパ腫。MALT:Mucosa-Associated-Lymphoid-Tissue)や胃がんの発症の危険が高まることから、ピロリ菌は国際がん研究機関が発表するIARC発がん性リスク一覧において、グループI(発がん性がある)に分類されています。
 ピロリ菌の感染は、口から体内に侵入することから始まります。菌が胃に到達すると、胃液を中和しながら胃粘膜表面の上皮細胞に付着して感染を確立して、増殖し、炎症を引き起こします。上皮細胞に付着したピロリ菌は、IV型分泌装置と呼ばれる特殊な装置を上皮細胞に挿入して、菌体内のCagA病原たんぱく質を上皮細胞内部に注入します(図1、2)。CagAたんぱく質はピロリ菌の病原性に密接に関連する病原因子であり、分子作用に関して解明が進んでいますが、実際の感染におけるCagAたんぱく質の作用は謎のままでした。
 ピロリ菌をはじめ多くの粘膜病原細菌は、感染の足場として上皮細胞を利用します。一方、感染を受ける側の宿主は、上皮細胞を数日のうちにアポトーシスによって剥離させ、これを入れ替えること(ターンオーバー)で、病原体の定着を防ぎます(図1)。この上皮細胞の迅速なターンオーバーは、常に細菌にさらされている消化管粘膜において、病原体の定着を防ぐ手段となることから、重要な生体防御機構として知られています。しかし、ピロリ菌は2-3日という早いスピードで入れ替わる胃上皮細胞に持続感染を確立できるため、菌が胃粘膜表層のターンオーバーを調節するメカニズムを有しているのではないかと考えられました。

<研究成果の概要>

 研究チームは今回、スナネズミにアポトーシスを誘導する薬剤を経口投与することで、通常の胃粘膜上皮細胞のアポトーシスによるターンオーバーを観察しやすくする方法を開発しました(図3)。ピロリ菌が感染したスナネズミでは、アポトーシス誘導剤を経口投与しても、胃粘膜表層上皮細胞のアポトーシスが抑制されることを発見しました。さらに、CagAたんぱく質とIV型分泌装置を欠いたピロリ菌が感染したスナネズミにアポトーシスを誘導すると、菌が感染していない正常な胃と同じようにアポトーシスが起こりました。すなわち、CagAたんぱく質が胃粘膜上皮細胞に注入されると、感染細胞はアポトーシスに耐性を示したのです。
 そこで、なぜCagAたんぱく質がアポトーシスを抑制するのか、そのメカニズムを明らかにするために実験を進めました。その結果CagAたんぱく質は、宿主のGRB2たんぱく質やCRKたんぱく質(注5)と結合してERKキナーゼを活性化させることにより、細胞のミトコンドリア(注6)上に存在しアポトーシス細胞死の抑制因子であるMCL1たんぱく質の発現を促進することが判明しました(図4)。つまり、CagAたんぱく質がMCL1たんぱく質の発現を促進することで、感染上皮細胞のミトコンドリア経由アポトーシスを阻害することが明らかになりました。
 また、スナネズミの胃に定着した菌数を測定すると、野生型ピロリ菌を投与した場合には、CagAたんぱく質とIV型分泌装置がない菌の場合よりも多数の菌が検出されました。つまり、CagAたんぱく質を分泌するピロリ菌は、胃粘膜感染の足場となる表層上皮細胞のアポトーシスによる剥離を抑制して、長期持続感染を成立させることが明らかになりました(図5)。

<今後の展開>

 本研究によって、ピロリ菌が胃への感染を成立させるために、上皮細胞のアポトーシスを抑制するという新たなメカニズムが明らかになりました。本研究グループは、既に赤痢菌でも宿主の腸上皮細胞のターンオーバーを遅らせるメカニズムを解明しています。これらの成果は、粘膜病原細菌が持続感染を確立するために、共通戦略を持つことを提起するものです。ピロリ菌の除菌には、3剤併用療法とよばれる治療法が標準となっていますが、抗生物質に対する耐性菌が感染している場合には、除菌が困難な場合があります。今回の研究は、従来の抗生物質による除菌とは異なる新しい治療方法の開発への布石となるものと期待されます。

<参考図>

図1 ピロリ菌の感染と胃上皮細胞

図1 ピロリ菌の感染と胃上皮細胞
 図は胃腺の構造を示す模式図です。虹色の部分は全て上皮細胞を示します。胃の内側表面を覆う上皮細胞は、腺窩上皮細胞(赤)とよばれ、胃腺の峡部で生まれた前駆細胞(黄)から分化を遂げながら、数日以内に胃小窩と呼ばれる胃腺の頂端へ移動して、アポトーシスによってはがれ落ちます(ターンオーバー)。一方、腺頸部(緑)や腺底部(青)の上皮細胞は、峡部から腺底部へ向かって分化しつつ移動します。胃粘膜に感染して付着したピロリ菌は、この上皮細胞のアポトーシスを抑制することで、細胞がはがれ落ちるのを防ぎ、自分が感染する足場を確保しながら増殖します。

図2 ピロリ菌は胃表層の上皮細胞上に定着する

図2 ピロリ菌は胃表層の上皮細胞上に定着する
 スナネズミにピロリ菌を経口接種してから8週間後の胃を観察すると、青色で示すピロリ菌が、胃粘膜上皮細胞の表面に多数存在しているのがわかります。

図3 スナネズミ胃粘膜上皮細胞のアポトーシス 図3 スナネズミ胃粘膜上皮細胞のアポトーシス

図3 スナネズミ胃粘膜上皮細胞のアポトーシス
(左)アポトーシス誘導剤を投与しない場合は、胃表層の上皮細胞に、緑色で示すアポトーシスを起こした細胞が見られます。
(右)アポトーシス誘導剤であるエトポシドを経口投与すると、胃表層の多くの細胞がアポトーシスを起こし(緑色)、はがれ落ちるのがわかります。
ピロリ菌が定着する場所である胃粘膜上皮細胞は、絶えずアポトーシスによって剥離していることがわかります。

図4 ピロリ菌感染による胃上皮細胞MCL1発現上昇
図4 ピロリ菌感染による胃上皮細胞MCL1発現上昇

図4 ピロリ菌感染による胃上皮細胞MCL1発現上昇
 スナネズミにピロリ菌を感染させて8週間後に、胃のMCL1たんぱく質を抗体で染色すると、緑色で示されるMCL1たんぱく質は、ピロリ菌野生株が感染した胃粘膜の上皮細胞で強く発現していることがわかります。

図5 ピロリ菌CagAたんぱく質によるアポトーシスの抑制

図5 ピロリ菌CagAたんぱく質によるアポトーシスの抑制
 CagAたんぱく質は、注入された細胞質内でGRB2/CRKたんぱく質と相互作用して、ERKカスケードを活性化します。その結果発現上昇したMCL1たんぱく質は、ミトコンドリアに作用して、細胞のアポトーシスを抑制します。そして、ピロリ菌が付着している細胞の剥離が抑制されて、菌が増殖する足場が守られます。

<用語解説>

注1)CagAたんぱく質(Cytotoxicity associated immunodominant antigen):
 ピロリ菌が持つ病原性たんぱく質。菌のIV型分泌装置から菌体外へ分泌されることが唯一明らかにされています。

注2)ERKキナーゼ(extracellular signal-regulated kinase):
 細胞外シグナル制御キナーゼ。マイトジェン活性化プロテインキナーゼ(MAPK)ファミリーに属する生存因子。

注3)アポトーシス細胞死
 細胞死の形態の一つ。Programmed cell death (計画された細胞死)ともいわれます。不要になった細胞を排除するという細胞自身に備わっている機構で、ミトコンドリアを介する経路と、細胞膜の受容体(Fasなど)を介する経路があります。どちらの経路も細胞にアポトーシスを起こさせるカスパーゼという酵素が活性化され、細胞成分の破壊が誘導されます。

注4)MCL1たんぱく質(myeloid cell leukemia sequence 1):
 アポトーシス抑制たんぱく質BCL-2ファミリーたんぱく質群の一つ。ミトコンドリア膜上に存在します。アポトーシスを引き起こす機構には、ミトコンドリアを介する経路と、細胞表面の受容体を介する経路がありますが、前者のミトコンドリア経路が活性化すると、アポトーシス誘導たんぱく質であるBaxなどの作用によってミトコンドリアに穴を形成して、ミトコンドリア膜間内部の成分であるシトクロムcを放出します。シトクロムcは細胞質のたんぱく質の一種、Apaf-1と結合するとカスパーゼ9(たんぱく質分解酵素群の一つ)を活性化して、アポトーシスを引き起こします。MCL1たんぱく質はミトコンドリアに存在して、Baxによる穴の形成を抑制してアポトーシスを抑制するたんぱく質です。

注5)GRB2(growth factor receptor-bound protein 2)・CRK(v-crk sarcoma virus CT10 oncogene homolog)
 細胞膜に存在するさまざまな成長因子受容体とRAS/MAPKカスケードとの間を仲介するアダプターたんぱく質。

注6)ミトコンドリア
 真核細胞においてみられる細胞小器官の一種で、酸素呼吸により生命活動で必要とされるエネルギーであるATPの大部分を産生しています。また、アポトーシスの誘導機構においても重要な役割を担っています(注4参照)。

<論文名>

"Helicobacter pylori Dampens Gut Epithelial Self-Renewal by Inhibiting Apoptosis, a Bacterial Strategy to Enhance Colonization of the Stomach"
(ピロリ菌は、消化管上皮の代謝回転をアポトーシス抑制により遅らせる。 -胃で増殖するための細菌の戦略-)
doi: 10.1016/j.chom.2007.09.005

<研究領域等>

この研究テーマが含まれる研究領域、研究期間は以下のとおりです。

戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(CREST)
研究領域「免疫難病・感染症等の先進医療技術」
(研究総括:岸本忠三 大阪大学大学院生命機能研究科 教授)
研究課題名「病原細菌の粘膜感染と宿主免疫抑制機構の解明とその応用」
研究代表者笹川 千尋 東京大学医科学研究所 教授
研究期間平成15年度~平成20年度

<お問い合わせ先>

笹川 千尋 (ささかわ ちひろ)
東京大学医科学研究所 細菌感染分野
〒108-8639 東京都港区白金台4-6-1
TEL: 03-5449-5252
E-mail:

瀬谷 元秀(せや もとひで)
独立行政法人科学技術振興機構 戦略的創造事業本部
研究推進部 研究第一課
〒102-0075 東京都千代田区三番町5番地 三番町ビル
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