平成17年 3月22日

東京大学大学院
情報理工学系研究科
生物情報科学学部教育特別プログラム
URL http://www.kurodalab.org

科学技術振興機構(JST)
総務部広報室
URL http://www.jst.go.jp

細胞の反応をコンピュータシミュレーションで予測

~分子ネットワークの情報処理の仕組みを解明~

 東京大学(総長 佐々木 毅)とJST(理事長 沖村憲樹)は、細胞が増殖因子に対して反応する様子をコンピュータシミュレーションで再現し、細胞内の同じ分子ネットワークが増殖因子の投与速度と濃度を別の情報として捉えて、細胞の増殖や分化を制御していることをシミュレーションで予測し、実験により実証することに成功した。同じ分子ネットワークのコンピュータシミュレーションはこれまでにいくつか知られているが、「反応を再現するだけでなく、未知の刺激に対して反応を予測し、実験で実証した」のは世界で初めてである。生体内でもコンピュータシミュレーションの結果と同様の現象が起きていると推測でき、将来的には治療薬の開発の効率化に役立つことが期待される。

 この研究成果は黒田真也特任助教授(東京大学大学院情報理工学系研究科・理学部生物情報科学学部教育特別プログラムおよびJST戦略的創造研究推進事業・個人型研究(さきがけタイプ)「協調と制御」領域)と、笹川覚特任研究員、尾崎裕一特任研究員ら(東京大学大学院・情報理工学系研究科・理学部生物情報科学学部教育特別プログラム)によるもので、3月27日付けの英国科学誌「ネイチャーセルバイオロジー」(3月27日英国時間)の電子版に発表される(1)
(1):Prediction and validation of the distinct dynamics of transient and sustained ERK activation.
  (一過性および持続性ERK活性化の異なるダイナミクスの予測と実証)
  doi :10.1038/ncb1233

研究成果の概要

 細胞は外からの刺激である増殖因子(*注1)に反応して、増殖する、あるいは別の細胞に分化する、といった自分自身の運命を決めるまでに、細胞内の多数の分子による様々な反応を経て、増殖因子の刺激が伝達されていく。この反応は細胞内シグナル伝達*2機構と呼ばれる。しかし、シグナル伝達に係わる多数の分子のネットワークが外からの刺激のどういう情報を認識し、処理をして細胞の運命が決定されるのかは長い間謎であった。
 シグナル伝達に係わる分子のネットワークは非常に複雑であり、ネットワーク内の個々の反応を理解しても、全体の反応を直感で捉えることは困難であるため、コンピュータシミュレーション*3を用いたシステム生物学*4が発展しつつある。しかし、個々の反応を文献情報だけによって収集して行ったコンピュータシミュレーションは精度が非常に悪く、実際の反応の予測に使えないことが大きな問題であった。本研究では、特定の細胞に着目してカギとなるいくつかの分子のダイナミクス*5を詳細に計測して、これを正確に再現するコンピュータシミュレーションを作成した。その結果、増殖因子の刺激に対する細胞の応答の予測精度を飛躍的に向上することに成功し、この問題を克服した。さらに、細胞の増殖あるいは分化の運命決定に重要な分子ネットワークが、外からの刺激である増殖因子の投与速度と濃度の情報を見分けて、それぞれ一過的・持続的に活性化するように情報変換されることをコンピュータシミュレーションによって予測した()。この予測は実際の生細胞を用いた実験により正しいことが証明された。
 今後、実験とコンピュータシミュレーションを密接にフィードバックさせた手法を用いればさまざまな細胞の外からの刺激に対する応答が正確に予測できるようになり、将来的にはがんなどの病態解明や治療薬の開発の効率化に役立つことが期待される。

参考文献
(1) Sasagawa, S., Ozaki, Y. Fujita, K. and Kuroda, S. (2005) Prediction and validation of the distinct dynamics of transient and sustained ERK activation. Nature Cell Biology, in press

研究の背景

 細胞内のシグナル伝達ネットワークの全貌が明らかになりつつあり、シグナル伝達ネットワークは非常に複雑であることが分ってきた。このような複雑なネットワークがどのように情報処理をしているかを理解するために、コンピュータシミュレーションの有用性が指摘されてきた。しかし、大きな問題の一つは予測に使えるほど精度の高いコンピュータシミュレーションモデルを作成することが非常に困難であることであり、精度の高いコンピュータシミュレーションモデルの作成方法の開発がこの問題の解決策となると期待されていた。
 ERK*6と呼ばれる分子は古くから細胞の増殖などに関わることが知られており、ERKの活性化に関わる分子が抗がん剤のターゲットとなっている。また、PC12細胞*7では同じERKの活性化の時間波形が異なるだけで、増殖あるいは分化といった運命決定を行うことが知られていたが、そもそも増殖因子が持つどのような情報がERKの一過性と持続性の活性化を引き起こしているのか長らく不明であった。シグナル伝達ネットワークは増殖因子の持つさまざまな情報を巧みに取り出して多彩な現象を制御しており、その特性を理解して予測することができれば生命現象の理解や創薬開発技術の劇的な進歩をもたらすと期待され、刺激から最終的な反応までの複雑な生命現象を制御する情報処理システムの解明が長らく待たれていた。

研究内容の詳細

 細胞は外界からの刺激に依存して増殖あるいは分化などの運命決定をする。例えば、PC12細胞では、EGF(Epidermal Growth Factor、上皮増殖因子)により増殖し、NGF(Nerve Growth Factor、神経成長因子)により神経様細胞に分化する。EGFとNGFの刺激により、細胞内ではERKと呼ばれる分子が一過的あるいは持続的に活性化され、一過性の場合は、細胞は増殖し、持続性の場合は分化が誘導される(1)。この一過性および持続性のERKの活性はそれぞれRasとRap1*8と呼ばれる分子により制御されている(2)。しかし、増殖因子のどういう情報をERK分子ネットワークが取り出して情報処理をしているかは長らく謎であった。
 本研究では、まず現在までに報告された個別の実験結果を基にコンピュータシミュレーションモデルを作成した((3)。しかし、パラメータ*9の一部が不明であったり、不正確であったりしたために実験結果を再現することはできなかった。そこで、PC12細胞に上記のEGF、NGFをさまざまな濃度で投与して分子ダイナミクスを詳細に計測し、その結果をコンピュータシミュレーションにフィードバックすることで精度を飛躍的に向上させることに成功した。これによりPC12細胞を用いた実験結果を矛盾なく再現することが可能となった。このシミュレーションモデルを用いて、増殖因子の投与速度を変化させるシミュレーション実験を行ったところ、一過性のERKの活性化はEGF、NGFを投与する速度が遅くなると反応しなくなったが、持続性のERKの活性化はNGFを投与する速度に関わらず、最終濃度に対して反応することが予測された。この予測はPC12細胞を用いた実験で確かめられた。この結果から、EGF、NGFの投与速度と、NGFの最終濃度が細胞内で別々に情報処理されて一過性および持続性のERKの活性化へ変換されることが示唆された。
 次に、増殖因子の投与速度と濃度をERK分子ネットワークがどういう仕組みで検知しているかを調べるため、ERKの一過性と持続性の活性を制御するRasとRap1の活性化の仕組みをコンピュータシミュレーションにより調べた。その結果、RasとRap1の不活性化機構が増殖因子の濃度に対してRasは依存的、Rap1は非依存的であり、これによってRasは増殖因子の投与速度に、Rap1は最終濃度に対して反応できることを予測した。この予測はさらに実験により確かめられた。以上の解析から、増殖因子の投与速度と濃度を別々の情報として分子ネットワークが捉えて、それぞれ一過性と持続性のERKの活性化の時間波形へ変換していることが明らかとなった。
 本研究のモデルは細胞の反応の全体でなく限定的なものであり、今後はさらに拡大して統合的なモデルの作成を試みる。また、統合的モデルにより細胞全体の反応がコンピュータシミュレーションで予測できるようになれば、どの分子を治療薬のターゲットにすればよいか、またどういう効果が得られるのかを事前に予測することが可能となり、治療薬開発の効率化が飛躍的に進むことが期待される。

(1) Gotoh, Y., Nishida, E., Yamashita, T., Hoshi, M., Kawakami, M. & Sakai, H. Microtubule-associated-protein (MAP) kinase activated by nerve growth factor and epidermal growth factor in PC12 cells. Identity with the mitogen-activated MAP kinase of fibroblastic cells European Journal of Biochemistry, 193, 661-669, 1990.
(2) Vaudry, D., Stork, P. J., Lazarovici, P. & Eiden, L. E. Signaling pathways for PC12 cell differentiation: making the right connections Science 296, 1648-1649, 2002
(3) Sasagawa, S., Ozaki, Y., Fujita, K. and Kuroda, S. Prediction and validation of the distinct dynamics of transient and sustained ERK activation, Nature Cell Biology, in press

用語解説
図 細胞の反応の情報処理の仕組み

本件に関する問い合わせ先:

 黒田 真也(くろだ しんや)
 〒113-8656 東京都文京区本郷7-3-1
  1. 東京大学・大学院情報理工学系研究科・生物情報科学学部教育特別プログラム、特任助教授
  2. 独立行政法人科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業個人研究者
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 笹川 覚(ささがわ さとる)
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 瀬谷 元秀(せや もとひで)
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