補足説明


(研究の背景)

 1個の細胞である受精卵から多細胞生物が発生する際、細胞は単に分裂をくり返すだけでなく、それぞれの細胞は適切な運命をたどり多様な種類の細胞を生まなければならない。その最も基本となるメカニズムが非対称分裂であり、すなわち1個の母細胞が異なる運命を辿る2個の娘細胞に分裂する過程である。細胞分裂によって産まれた2個の娘細胞が異なる運命を辿るには、2個の娘細胞間で非対称的に異なる遺伝子が発現し機能する必要がある。
 ショウジョウバエの1本の感覚剛毛は、1個の神経母細胞が非対称分裂をくり返すことによって生み出された5個の細胞(神経細胞1個を含む)からなる。この5個の細胞は全て異なる種類の細胞であるため、非対称分裂の研究のためのすぐれたモデル実験系として注目されてきた。最初の非対称分裂によって、神経母細胞は神経前駆細胞と支持細胞前駆細胞を生み出すが、この過程は神経分化抑制因子であるTramtrack蛋白質が支持細胞前駆細胞にのみ発現して働くことによって、運命の非対称性が確実なものになることが知られていた。しかしながら、どのようなメカニズムによってTramtrack蛋白質が一方の娘細胞でのみ発現するかは謎であった。

(具体的な実験結果と考察)

 岡部らは、Tramtrack蛋白質が支持細胞前駆細胞にのみ発現しているにもかかわらず、tramtrack遺伝子の伝令RNAは支持細胞前駆細胞と神経前駆細胞の両方の娘細胞に存在していることを発見した。このことは、Tramtrack蛋白質の発現がDNAから伝令RNAへの転写の過程で調節をうけているわけではなく、むしろ転写の後の段階で調節されていることを示していた。
 さらに、RNA結合蛋白質であるMusashi蛋白質がtramtrack伝令RNAに直接結合することにより、神経前駆細胞においてのみtramtrack伝令RNAが蛋白質に翻訳されることを防いでいる事を明らかにした。これにより、Tramtrack蛋白質は支持細胞前駆細胞で発現して神経分化抑制因子として機能するが、Musashi蛋白質の活性によって神経前駆細胞ではtramtrack伝令RNAが蛋白質に翻訳されることはなく、神経前駆細胞は神経細胞を生み出す能力を維持することができると考えられた。

(今回の成果のポイント)

 殆どの遺伝子の発現は、DNAから伝令RNAを合成する「転写」の過程で調節されていると考えられている。伝令RNAから蛋白質を合成する「翻訳」の過程で遺伝子の発現調節を行っている例としては、受精卵において最初の接合体遺伝子が転写を開始するまでのわずかな時間に行われている事がこれまで報告されていた。しかしながらこのような翻訳の過程における遺伝子発現調節が、神経系が形成されるような発生の後期においても存在するか否かに関してはほとんど注目されることがなかった。
 今回、発生後期の神経系の形成過程においても、翻訳調節による遺伝子の発現調節機構が存在することが明らかとなった。このことは、神経系における細胞の多様性を生むメカニズムが新たに示されたことも意味している。また、その分子メカニズムとして、伝令RNA上の特定の塩基配列とそこに結合するRNA結合蛋白質を同定したことも意味深い。
 ゲノム計画により続々と新しい遺伝子が同定されている昨今、遺伝子の発現パターンを知る方法としてもっとも簡便で利用されているのは、伝令RNAの存在を調べることである。しかしながら本研究により、発生過程で伝令RNAが存在しても蛋白質が合成されない遺伝子発現調節機構が、受精直後の卵に限らず発生後期の生物においても存在していることが明らかとなり、伝令RNAの存在が必ずしも遺伝子の活性化と結びつかない可能性を示している。

(今後の展開)

 Musashi蛋白質はショウジョウバエに限らず、線虫からヒトに至るまで幅広い生物種で保存されている。ヒトやマウスの神経幹細胞にMusashi蛋白質が強く発現していることが既に知られており、ヒトにおいても神経幹細胞においてMusashi蛋白質が重要な働きをしている可能性がある。試験管内における神経幹細胞の分化制御は、神経変性疾患のための再生医学の発展に必要不可欠な技術であり、これらの知見の応用が期待される。


This page updated on May 3, 2001

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