補足説明


1. 発表論文題名。(Science誌3月23日発表予定)

Activity-dependent transfer of brain-derived neurotrophic factor to postsynaptic neurons.
脳由来神経栄養因子のシナプス後ニューロンへの活動依存的移行。

2. 研究の背景。

 神経細胞(ニューロン)がその突起を伸ばし、さらに長期間生き残るには突起の標的となる細胞から栄養因子を受け取ることが必要とされ、そのような物質を最初に見出したLevi-Montalchiniらは神経成長因子(Nerve Growth Factor, NGF)と名づけた。彼女らはその発見により1986年にノーベル医学生理学賞を受賞している。しかしながら、NGFは主に末梢神経系に存在し脳にはほとんど無いことがその後判明し脳研究ではあまり注目されなかった。1980年代後半になって神経成長因子遺伝子と近縁の遺伝子産物が脳内に多量存在することが明らかとなり脳由来神経栄養因子(Brain-Derived Neurotrophic Factor, BDNF)と名づけられた。1990年代になってこのBDNFが脳内神経回路網の形成や発達、さらにはその生存に重要であることが明らかとなった。さらに1990年代後半にはシナプスの可塑性にも関与し記憶や学習にも重要であることが報告された。そのような多彩な作用のメカニズムについては、NGFとの類推から, シナプス後部から放出されシナプス前部に取り込まれて作用を発揮するのではないかと信じられてきた。しかし、実際には移動や放出に関するデーターはほとんどなかった。本研究ではBDNFの移動の有無、方向やその様子を新規に開発した方法で明らかにし、従来の仮説を逆転させる知見を得た。

3. 研究発表の要点。

 BDNFの動きを目で見えるようにするため、BDNF遺伝子に緑色蛍光蛋白質 (Green Fluorescence Protein, GFP) 遺伝子を連結させた遺伝子を微小ガラス管からラット大脳皮質の培養神経細胞の核内に顕微鏡観察下に直接注入した。その結果、1から2日で蛍光蛋白質で標識されたBDNFが神経細胞内に発現し、軸索突起内を末端に向かって移動することが観察された。また、この突起に接続しているシナプス後部のニューロンに移動することも見出された。さらに、この細胞間移動は神経細胞の活動を薬で抑えると無くなり、刺激すると増加することから神経細胞の電気活動に依存することも明らかとなった。また、この移動がBDNFに特有かどうかを明らかにするため赤色蛍光蛋白質を発現する遺伝子を同時に核内に注入し動きを調べたところBDNFだけが他の神経細胞に移行することが認められた。すなわち、BDNFは神経細胞の電気活動とともにシナプス後の神経細胞に移ることが示された。

4. 研究成果の社会的意義。

 当研究成果の意義は新規に開発した方法が持つ意義とその結果得られた知見のもたらす意義に分けられる。

1) 蛍光蛋白質標識遺伝子の核内直接注入法の意義。
 特定の遺伝子産物を生きた細胞に発現させその産物蛋白質の機能を調べることは、ポストゲノム時代の到来とともに、学術研究の世界のみならずバイオ関連の産業界にとっても極めて重要な研究課題となりつつある。この遺伝子産物の機能を調べる方法として従来は、特定のウィルス断片に遺伝子を組み込んで細胞に感染させ発現させるというウィルスベクターを使う方法が広く使われてきた。その他にも、電圧ショック、浸透圧ショックなどの方法で遺伝子を細胞内、さらには核内に入れようとする種々の試みがなされてきた。ただ、従来の方法は多数の細胞のどれに目的とする遺伝子産物が発現するか前もって特定できなかった。つまり、特定の機能や形態を持つ細胞にだけ発現させることは非常に困難であった。また、複数の遺伝子産物を同時に発現させることもほとんどできなかった。本方法では形態や機能のある程度明らかな特定の細胞に蛍光物質で標識した遺伝子産物を選択的に発現させることができるので、特定の遺伝子の機能を確実に調べることができる。また、複数の遺伝子を同時に注入することもできるので、複数の遺伝子産物の相互作用を明らかにすることができる。したがって、本方法は、今後、ヒトゲノム研究等で明らかとなった遺伝子の機能を調べる方法として、医学・生物学領域で広く使われる重要な方法となる可能性が高い。
2) シナプス後細胞への活動依存的移行の発見の意義。
 発生・発達神経科学では、従来、神経栄養因子はシナプス後細胞より放出され、活動的なシナプスは強化され、不活発なシナプスが淘汰されるというシナプス競合に関与していると考えられてきた。このようなシナプス競合説は神経科学における有力な仮説として広く信じられ、それをもとに如何に神経回路が自己組織的に形成されるかの数理モデルも提唱されている。本研究でBDNFがシナプス前部より放出されることが明らかとなりシナプス競合仮説とそれに基づくモデルの再考が必要となった。一方、臨床医学領域では、神経栄養因子は神経細胞が変性していく神経難病(例えば筋萎縮性側索硬化症)の治療薬、神経の再生の促進薬、或いは脳の病的老化や脳血管障害による神経細胞の死を防ぐ薬となる可能性が研究されてきた。また、最近は可塑性の低下した大人の脳を再び可塑的にし学習や記憶能力を上げる物質としての可能性も調べられている。本研究により、BDNFが従来考えられていた方向とは逆にシナプス後部へ移行すること、及びその移行は神経活動に依存していることが明らかとなり、治療薬を開発する場合、その投与方法等を考えなおすことが必要となった。また、神経活動や神経刺激を考慮する必要性も明らかとなった。以上、神経回路の形成や再生を促進する物質、さらには神経細胞死を防ぐ物質の開発に重要な手掛かりを与えた発見と思われる。

This page updated on March 23, 2001

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