研究の背景と成果の内容および意義


背 景
   記憶にはいくつかの種類がある。大別すると、意識的記憶(explicit memory)と意識にのぼらない記憶(implicit memory)の二つに分けられる。前者は「何についての記憶」なのかを述べることができるので、陳述記憶(declarative memory)とも呼ばれ、日常的に「記憶」といえばこの陳述記憶をさすことが多い。陳述記憶は、アルツハイマー病や痴呆の初期に選択的に脱落するタイプの記憶であり、生理的加齢によって想起困難が起こりやすい記憶でもある。
 陳述記憶をつかさどるシステムは大脳皮質内に分散している。記憶形成には、側頭葉内側部にある大脳の古い部分(海馬を中心とする大脳辺縁系)が重要な役割を果たすことが知られている。記憶形成に必要な神経栄養因子などの物質的基礎も明らかになってきた(例えば、我々の研究では、Nature neuroscience 3, 1134-1142, 2000参照)。しかし、記憶を想起するシステムについては不明なことが多い。多くの記憶障害、とくに生理的加齢に伴う健忘の場合には、記憶内容自身(つまり記憶痕跡memory engramとも呼ばれる)が脳内から失われてしまうのではなく、想起過程がうまくいかなくなっていることが多い。実際、いくら自分が努力しても思い出せなかった事項(例えば、人の名前)が、適当なヒントが与えられた時に、または突然に、思い出される、という経験は多くの人が日常経験することである。想起過程のメカニズムの解明が、臨床医学的・社会的にも要請されている所以であろう。
 記憶想起システムの大域構造については、大脳前頭葉と側頭葉の相互作用が重要であることをすでに我々が明らかにしている(Nature 401, 699-703, 1999参照)。意図的に想起しようと努力する時には、この経路の果たす役割は大きい。一方、「自然に思い出される」時に働くシステムはどのようなものであろうか? 我々は、側頭葉の内部に存在する系統発生的に古い皮質(海馬を中心とする大脳辺縁系、本研究においては傍嗅皮質)と系統発生的に新しい皮質(本研究においては側頭葉TE野)の相互作用が重要なのであろうとの仮説を立てている。本研究では、傍嗅皮質とTE野の神経細胞(ニューロン)の活動を直接記録し、この仮説の検証を行った。
 
成果の内容および意義
   本研究の成果は、記憶想起が大脳新皮質(TE野)と辺縁系(傍嗅皮質)間の逆行性信号伝達と関係することを示したという点で意義深いものである。本研究では対連合記憶課題遂行中におけるTE野と傍嗅皮質の機能の相違を調べるために、それぞれの領野において個々の神経細胞の活動を調べた。その結果、TE野と傍嗅皮質の神経細胞は選択図形が提示されるのを待つ間、ともに手掛かり刺激として提示された図形ではなく、そのペアとなる図形をコードしていた。さらに多変量解析を用いて各神経細胞がペアとなる図形をコードし始めるタイムコースを調べた結果、TE野よりも傍嗅皮質の神経細胞が先にペアとなる図形をコードし始めることが判明した。ペアとなる刺激は長期記憶の中から取り出されるので、記憶想起はTE野よりも傍嗅皮質で先に始まることが証明されたことになる。このことは記憶想起信号が辺縁系内の傍嗅皮質から新皮質であるTE野に逆行性に伝播していることを示す。
 TE野から傍嗅皮質への「前向き信号伝達」は、時間遅れが約10ミリ秒程度であり、隣り合う領野が次々と信号を受け渡して行く階層的情報処理という従来のフレームワークに良く適合する。しかしながら、傍嗅皮質からTE野への「逆向き信号伝播」は、中心値でみるとその差が250ミリ秒以上あり、従来の信号伝達の概念では理解できない。記憶想起にかかわるニューロンネットワークの機能は、現在未知の新しい力学特性をもっている可能性が高く、記憶障害の機序の探索にはこうしたニューロンネットワーク力学特性不全を含めて基礎的病態生理メカニズムの理解が必要とされている。
 傍嗅皮質は、辺縁系の一部であって、視覚情報以外に聴覚や体性感覚といった他の感覚情報を処理していることが解剖学的知見から示されている。それゆえ本研究の結果は、視覚情報を基礎にした記憶想起のメカニズムにとどまらず、もっと一般的な記憶想起過程においても成立することが予想される。さらには、電話の声から相手の顔が思い出されるといった、異なる感覚様式間での記憶想起についても、今回、発見した逆行性シグナルが関与すると推論される。すなわち、大脳連合野の遠く離れた部分に存在する視覚性記憶や言語性記憶を結びつけている一般的な記憶システムについてのモデルを提供する先駆的研究であり、今後の健忘症治療や人工知能開発といった応用面においても理論的な基礎となることが期待される。

This page updated on January 26, 2001

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