補足説明


 個々の細胞が様々な顔を持ち、細胞外の刺激に応答して遊走するという現象は多くの研究者の長年の興味の対象であった。遊走には刺激に応答して生じる非常に速いアクチン線維の再構築が重要であると考えられている。ダイナミックに変化するアクチン線維の形は主に、ストレスファイバー、葉状仮足(膜ラフリング)と糸状仮足(フィロポジア)に分けられる。英国のAlan Hallらはこのようなアクチン細胞骨格制御にRhoファミリーの低分子量G蛋白質が重要な役割を果すことを明らかにし、Rhoがストレスファイバーの構築にRacが葉状仮足形成に、Cdc42が糸状仮足形成を制御していることを見いだした。しかしどのようにしてこれらG蛋白質の活性化が各々のアクチン線維の形態形成を引き起こすのかは明らかでなかった。我々は細胞増殖因子の刺激で、DNA合成が盛んになると同時に細胞骨格系の急速な再編が生じることから、増殖シグナルの下流に核へ行くシグナルとは別に細胞骨格再編へ向かうシグナルがあると考えて、アダプター蛋白質、Ash/Grb2に結合する蛋白質を探索した。その結果、N-WASPという新しい蛋白質を見つけた。N-WASPはWiskott-Aldrich syndromeの原因遺伝子のコードする蛋白質(WASP)と相同性を有する新しい蛋白質であった。この蛋白質は様々なドメイン構造をもつマルチファンクショナルな蛋白質で、Ash/Grb2結合ドメイン以外にCdc42やアクチンに結合するドメインを有していた。次にN-WASPがどうのような機序で活性化され、アクチンの核化、重合を引き起こすのかin vitroでの再現を試み、N-WASPにCdc42が結合するとC 末に存在するVCA領域が露出して、アクチンがV領域に、Arp2/3複合体がCA領域に結合してアクチンの重合を促進することを証明した。これらの結果からN-WASPのVCA領域がArp2/3複合体というアクチン重合を行うマシーナリーを活性化することが反応のトリガーになることが分かったので、次にアクチン重合に決定的な役割を果すVCA領域をもつ新しい蛋白質を探し、WAVEを見つけた。N-WASPがCdc42によって活性化され、糸状仮足形成を行うのに対し、WAVEはRacによって活性化され、Arp2/3複合体を介して葉状仮足(膜ラッフリング)形成を引き起こす蛋白質であった。しかしながらWAVEの場合は直接Racと結合できず、Racと WAVEをつなぐもう一つ別の蛋白質が必要であろうと思われた。今回、このmissing link としてインスリン受容体によってリン酸化を受けるがその生理機能は不明の蛋白質IRSp53を見いだした。本蛋白質はRacのシグナルをWAVEに伝え、Arp2/3 複合体を活性化して、アクチンの重合を促進し、葉状仮足を引き起こすアダプター蛋白質であった。この結果、非常に速いアクチンの重合を引き起こすアクチン重合のマシーンであるArp2/3複合体を活性化する蛋白質群、WASPファミリーとWAVEファミリー蛋白質を見つけたことになる。静止期の細胞ではアクチンの線維を急速に伸ばす反矢尻端が塞がれているためアクチン線維構造が安定で、細胞の形が保たれている。細胞外からの刺激を受け細胞が急速に活性化され、運動する必要があるようになると、急激なアクチン骨格の再編が必要になる。そのような場合、新たに非常に速いアクチンの重合を引き起こすためにArp2/3が必要とされる。しかしArp2/3のみではアクチン重合活性は非常に弱く、なんらかのファクターが必要であろうとされていた。その活性化ファクターがWASPやWAVE蛋白質である。前回、糸状仮足形成へ至るシグナリングを解明したのに続き、今回、WAVEを活性化して葉状仮足形成へ至るシグナル伝達の全貌を明らかにした。
 このような刺激を受けて急速に起きるアクチン線維の再構成は、細胞の遊走や神経突起の形成、癌細胞の亢進した細胞運動、または個体発生時の形態形成に重要である。形態形成にあたって、多くの前駆体細胞がある時期、特定の場所へ遊走する様子が観察されている。例えば、脳形成時に神経細胞は長いアクチンの糸状仮足を伸ばし、葉状仮足を発達させて、特定の場所へ集積するし、筋肉前駆細胞は体節から前肢へと仮足を伸ばして移動していく。このような胎児期から生後直後までに起こる広範な細胞移動は器官の位置決定と形づくりに必須であり、このプロセスを経て複雑な形態が完成される。最近では赤痢菌やワクシニアウイルスが細胞侵入後にアクチンのコメットを形成して泳ぎ廻る際にもWASPファミリー蛋白質が必須であることが分かって来ている。よって細胞の形作りや細胞運動のシグナル伝達系の解明は様々な疾病の治療に応用できる可能性のみならず、複雑な器官形成の仕組みの解明へも結びつく重要な発見であると思われる。


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