補足説明


研究の背景:

 知・情・意に集約される脳の高次機能のなかで、随意的な行動を発現させるしくみは個体の意図表現の手段として重要な機能である。意図した動作を開始する前にあらかじめその内容を企画すること(プラニング)は、行動の目的を果たすために欠くことのできない過程である。今回の研究によって、そのような動作企画の過程が大脳のどの部位において、具体的にどのようにして行われているかを、細胞活動解析法によって明らかにした。
 大脳前頭葉に連合野は多数存在するが、そのなかで運動前野は高次元の動作制御に関与する部位と考えられてきた。ヒトでこの部位が傷害されると、運動麻痺は無いにもかかわらず、行おうと意図した動作を行うことができなくなることが知られている。靴紐を結んだりネクタイをしめたりという動作ばかりではなく、目標とした位置に腕を正確に到達させることすらできなくなってしまう例が報告されているが、しかしそのようなばあいにも筋力の低下などはなく、握力も落ちていないのが特徴的である。このような徴候がなぜ生ずるかを理解するには、運動前野が正常の脳でどのように働いているかを正確に知る必要がある。
 従来の大脳前頭連合野の研究は、ヒトの傷害例の観察報告の他は、動物実験ではその構造と脳内の他部位との神経結合を調べる研究と、脳の局所的破壊(例えば運動前野だけを切除する)による研究が主体であった。それらの研究で、運動前野はひとつの均一な領域ではなく、特徴を異にする小領域があり、それぞれにおいて機能も異なることが理解されてきた。最近の脳活動イメージング法(PET法、fMRI法)によって実際の働きを知ろうとする試みも進んでいるが、しかし解像度の不足から個々の領域における機能の違いを見出すまでには至っていない。
 大脳前頭連合野の機能を的確に理解するには、脳を構成する神経細胞のレベルまで立ち入って、その働き方を実際の行動に即して調べることが必要である。しかも時間的解像度はミリ秒が必要である。今回の研究はそれらの要件を満たし、しかも動作企画という機能を時間的に進行させるきわめて具体的な実験モデルを設定することによって、大脳運動前野の機能の実態を示し、しかも領域特異性をも明らかにしたものである。

研究発表の要点:

 動作を企画するにあたっては、動作の対象である動作目標を決め、他方動作を行う身体部位を決める必要がある.動作のプランニングに際して、動作目標の情報と動作主体となる体部位の情報は、脳のどこでどのように統合され、次の段階である動作準備に移行していくのであろうか。今回の研究で、この疑問に対する解答が見つかった。①大脳運動前野のなかの、背側部の特定の領域において特徴的な細胞集団が存在すること、②細胞集団には4種類あり、第一の集団は動作目標の情報を抽出すること、③第二の集団は使うべき体部位の情報を抽出すること、④第三の集団は、それらの2種類の情報がそろった段階において動作自体の情報を表現すること、⑤第四の集団は行動の経過によって、当初は第一または第二の特性を示し、ついで第三の細胞特性に移行するを発見したものである。以上の事実は、運動前野の特殊化された領域において必要な情報の統合が行われ、動作のプランニングが行われる実態を示すものである。

研究成果の社会的意義:

 この研究は脳を知るという大きな目標を掲げた戦略的基礎研究のひとつとして行われたものであり、具体的な行動をもたらすために脳がいかにして機能するかを知ること自体に意義がある。
 動作の企画ないしはプランニング過程という、重要な脳機能でありながら従来抽象的な理解にとどまっていた機能の過程の場を、大脳の特定の部位に同定し、関与する細胞集団を見出し、それらの細胞活動の特性に集約して明らかにした。今後他の多くの脳機能についてもこのような具体的理解が進む可能性があり、脳の高次機能の実態を細胞活動の時間的・空間的パターンとして表現できることが期待される。それはヒトのヒトたるゆえんである精神活動の理解につながり、さまざまな精神疾患における徴候がなぜ生ずるかを理解することにもつながると思われる。
 他方、分子生物学の発展が著しい現在、脳の細胞を構成する微細な素子や生理活性物質に関する知識が飛躍的に増大している。それらの物質や構造の作用に関する研究が広範に進められているが、しかしその大半は極めて局所的なレベルでの作用理解にとどまっている。今回の研究のように、脳がシステム的に働いて個体に具体的な機能をもたらしているときに、どの部位のどの細胞集団がどのように活動しているかを知ることができたことは、将来的には分子生物学的知識とシステムレベルでの脳の働きの理解を有機的に結合させるあらたな研究方向が展望される。そのような次世代の研究は、医学・生物学のみならず広く人文・社会科学にも転機をもたらし、社会の発展に寄与することが期待される。


This page updated on November 24, 2000

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