研究課題別研究評価

研究課題名:生体分子を人工分子で認識する

研究者名: 井上 将彦


研究のねらい:
 生物はいろいろな分子の秩序のある集まりで、生命現象とはそこから生まれる機能である。分子の秩序ある集まりは、選択的な分子間での相互作用(分子認識)によってもたらされている。しかしながら生体の分子を認識することは、生体の分子にしかできないのであろうか? 生体分子を認識できる人工分子を合成することができれば、生体分子の高感度センサーや酵素のような特異的な触媒を開発することができるかもしれない。ある分子を認識するためには、いくつかある分子間での相互作用(静電相互作用・疎水性相互作用・van der Waals 相互作用・水素結合性相互作用)をうまく選び、かつそれがうまく働くように、認識する方の分子の構造を「設計」する必要がある。本研究では、最新の計算機化学と有機合成化学を活用して、生体分子を認識できる人工分子の開発を検討した。
研究結果及び自己評価:
<研究結果>
1. 糖を水素結合で捕まえる
 糖質を認識する人工分子を設計していくにあたって、本研究者は認識の主な相互作用として、一つ一つの力は弱くても力の方向性を持つ水素結合と、分子の"形"を見分けることができる van der Waals 相互作用を選んだ。計算機で分子構造と相互作用のシミュレーションを行い、有機合成の手法を使って実際の分子をいくつか合成し、その能力を比較した。そして最も適した構造を探した結果、三つのピリジン環を"くの字型"に硬くつないだ環状構造の分子に行き着いた。水素結合をするピリジン環と"つなぎ"の構造を少しずつ変えることにより、リボース(RNA の糖)・デオキシリボース(DNA の糖)・グルコース(生物のエネルギー源)などの重要な糖質を選択的に認識する人工分子を開発することに成功した。糖を人工分子で認識する研究で、"狙って"選択性を持たせることができた初めての例である。
2. 分子の中に疎水ポケットをつくる
 DNA やタンパク質の内部に作られる水を嫌う空間(疎水ポケット)を、"水に溶ける"人工分子でつくることを目指し"中身の抜けたサンドイッチ"分子を合成した。この"サンドイッチ"分子の疎水ポケットは、上下面が大きな芳香族分子(ピレン)で構成され、完全に外の水からシールドされている。またそのポケットの幅は、平たい芳香族化合物が一層だけ入り込める狭さである。すなわち認識される分子との間で、疎水性相互作用と van der Waals 相互作用がきっちり働くよう、あらかじめ設計されたサンドイッチ構造に作られている。実際この"サンドイッチ"分子は、いろいろな芳香族化合物や核酸塩基を水の中で強力に認識することが判明した。この成果は、有害な
芳香族化合物を汚染された水中から除去することや、酵素に見られるような水中での選択的な反応へ展開できるなど、多くの応用を期待させる。
3. DNAの相互作用をまね、そして越える
 DNA 中の相互作用は、核酸塩基間での横の水素結合と"だるま落とし"のような核酸塩基対の縦の積み重なりによる van der Waals 相互作用に大別することができる。このような縦と横の相互作用が同時に働く人工分子を合成し、DNA を認識することに挑戦した。相互作用する二つの部位をつなぐ構造としては、フェロセンという金属を含む人工分子を選んだ。核酸塩基と水素結合ができる部位と、van der Waals 相互作用ができる部位をもつ人工分子は、二つの相互作用が同時に働き核酸塩基を認識することがわかった。さらに、水素結合部位を一つずつつなぐことによって、小さな DNA を認識することにも成功した。核酸塩基のうちチミン(T)を認識できる水素結合部位を二つもつ人工分子では、いろいろな DNA が混ざった中から T と T のつながった DNA を選択的に認識し、かつ分離する能力があることが判明した。

<自己評価>
「生体分子を人工分子で認識する」
この研究題目は、時間の経過による妥協の芸術(?)である。
「完全人工分子による水中での水素結合場の構築」
これがさきがけ研究に採択された当時の研究題目である。
水という、水素結合が最も難しい溶媒中で水素結合によって生体分子を認識する。この目標を達成するために、いくつかの具体的な研究のサブテーマを設定した。その各々のテーマを遂行する過程で、この新しい化学の一分野はトライ&エラーであり、まったくもって予測も論理も未熟なレベルでしかない自然科学であることを痛感した。さらに本研究者がかつて身をおいていた有機合成化学は、分子を構築する唯一の学問でありながら、その内側にいたときに感じた完成度とはほど遠い未完成な学問であることも認識した。
「どこまで論理的に分子を設計することができるか?」
「どこまで自在に分子構造を構築することができるか?」
「そして合成された分子は、本当に予想された機能を持つのか?」
本研究者の興味は、「水中での水素結合場の構築」という具体的な研究課題から少しづつ離れ、現在の有機化学の限界に挑戦する抽象的な意識にシフトしていってしまった。それが上述の妥協の芸術としての研究課題に集約されたといっても過言ではない。もちろんそこから生まれた成果は,これまでにない新しい知見を含んだ結果であると自負している.しかしながら当初の目的からはかなり逸脱したことも事実である.
 したがって3年間の研究を狭義の到達度として自己評価すれば、はっきり言ってしまえば0点である。本研究者が3年間で到達したことは、自身が身をおいていた(現在もおいている?)有機(合成)化学を、外から冷静に見つめることが本当の意味でできたということであり、その意味では高い自己評価(自己満足?)を与えられると思うのみである。

<今後の展開>
1. 三次元的な分子間相互作用場の高精度な分子設計と合成
 本研究は、現在までの<研究結果>の更なる拡張である。現時点において可能な限りの高精度な計算機化学と最新の有機合成化学を武器に、従来では不可能と思われてきた三次元的な相互作用場を有する人工分子を設計・合成する。具体的には多糖類やペプチド、そしてオリゴヌクレオチドなどの多官能性で、かつ三次元的な相互作用を必要とする生体重要基質を認識のターゲットとする。
2. 分子間相互作用を利用した有機合成反応の新機軸確立への展開
 有機化学の王道は,自在に分子を作り上げる合成であることに疑う余地がない.有機合成化学は周辺化学からの成果を取り入れ急成長した.有機金属化学が有機合成化学に与えた影響は論をまたないが、分子間相互作用(分子認識)を利用した有機合成化学はいまだに遊びの領域を出てはいない。本研究課題は、現在の有機化学において困難とされている反応に焦点を絞り、分子認識を利用した有機合成反応の新機軸確立を目指し,まずはその方向性を探ることを目標とする。
領域総括の見解:
 研究というものは必ずしも当初予想したように展開するものではなく、そうでない程興味ある結果が得られる場合もある。リボースに対するポケットを形成する分子、そして疎水ポケットと呼べるような分子、そして小さなDNAを認識できる人工分子の作成の成功は3年間のさきがけ研究としては十分といえる。そしてまた、この間獲得できたこの分野の研究についての認識も貴重なものかも知れない。
主な論文等:
1. "Remarkably Strong, Uncharged Hydrogen-Bonding Interactions of
Polypyridine-Macrocyclic Receptors for Deoxyribofuranosides" Inouye, M.; Takahashi, K.; Nakazumi, H., J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 341 - 345.
2. "Molecular Recognition Abilities of a New Class of Water-Soluble
Cyclophanes Capable of Encompassing a Neutral Cavity" Inouye, M.; Fujimoto, K.; Furusyo, M.; Nakazumi, H., J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 1452 - 1458.
3. "Nucleobase Recognition by Artificial Receptors Possessing a Ferrocene Skeleton as a Novel Modular Unit for Hydrogen Bonding and Stacking Interactions" Inouye, M.; Hyodo, Y.; Nakazumi, H., J. Org. Chem. 1999, 64, 2704 - 2710.
4. "Glucopyranoside Recognition by Polypyridine-Macrocyclic Receptors
Possessing a Wide Cavity with a Flexible Linkage" Inouye, M.; Chiba, J.;
Nakazumi, H., J. Org. Chem. 1999, 64, 8170 - 8176.
など外部発表18件(論文6件、解説・総説2件、招待講演を含む口頭発表11件)

(特許、受賞、招待講演等):
◆招待講演:
1. 人工レセプターの合目的分子設計:最近の研究を中心に
第12回日本化学会生体機能関連化学部会シンポジウム, 1997, 9, 岩手.
2. 剛直性と柔軟性を適度に組み合わせた分子間相互作用場の構築
日本化学会第74春季年会, 1998, 3, 京都.
3. 水中での水素結合を目指した分子間相互作用場の設計と合成
第4回日本化学会高精度分子設計研究会, 1998, 11, 大阪.
4. Molecular Recognition of Saccharides by Synthetic
Polypyridine-Macrocyclic Receptors Possessing a Convergent Hydrogen
Bonding Site
The 62nd Okazaki Conference, 1999, 1, Okazaki, Japan.
5. DNAの構造を手本とした人工レセプターの分子設計
日本化学会第77秋季年会, 1999, 9, 札幌.

This page updated on March 30, 2000

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