研究課題別研究評価

研究課題名:過去の体験に基づく好き嫌いの決定機構

研究者名: 森 郁恵


研究のねらい:
 線虫C.elegans は、温度勾配上で、餌を十分与えて飼育されていた温度へ移動するが、飢餓を体験していた温度を忌避するように行動する。餌の摂取状況の体験による温度嗜好の逆転現象を、分子遺伝学的に解析し、高等動物の学習や記憶の分子基盤を解明すること。
研究結果及び自己評価:
1) 野生型線虫個体の温度走性解析: 線虫C.elegans の温度走性行動は、1975年に HedgecockとRussell により報告されて以来、詳細な行動解析がなされてこなかった。そこで、本研究で詳細に野生型個体の行動解析を行った。その結果、17℃で餌を摂取していた線虫の飼育温度忌避行動を誘導するために、少なくとも3時間の飢餓体験が必要であるが、25℃で餌を摂取していた線虫の飼育温度忌避行動を誘導するためには、30分~1時間の飢餓体験で十分であることが明らかになった。また、17℃で3時間飢餓体験をさせた後に餌を与え始めた場合、約30分で飼育温度忌避行動が消失し、反対に飼育温度への温度走性が誘導されてくることがわかつた。同様の実験を25℃飼育で行った場合、約15分でほぼ完全に飼育温度忌避行動から飼育温度への温度走性への逆転が起こることがわかった。これらの結果は、温度走性の餌摂取による行動制御を研究していく上で、基礎となる情報であり、以下に示す飼育温度忌避行動異常aho 変異体の今後の解析を有効に効率良く行うためにも、大変重要な結果であると評価している。
2) 薬理学的解析: 餌を与えずにセロトニンを含む培地上で4時間飼育された場合、餌を摂取していなかったにもかかわらず、温度勾配上で飼育温度に移動した。逆に、餌を与えてオクトパミンを含む培地上で4 時間飼育した場合、餌を摂取していたにもかかわらず、飼育温度を忌避した。これらの結果により、餌シグナルとしてセロトニンが、飢餓シグナルとしてオクトパミンが内在的に放出または分泌され、温度の嗜好に重要な役割を果たしていることが示唆された。内在性セロトニンの合成異常変異体について、飼育温度への温度走性、および飢餓体験による飼育温度忌避行動について解析を行ったところ、明らかな異常を検出することができなかった。この結果の解釈は単純ではないが、セロトニンやオクトパミン以外の未知の餌や飢餓のシグナルの存在が示唆され、今後、それらのシグナルを同定する必要があると考えている。
3) 飼育温度忌避行動異常aho 変異体の単離と解析: 野生型個体にEMSで突然変異を誘発し、3~4時間の飢餓体験の有無にかかわらず、常に飼育温度への温度走性を示す突然変異体 (aho、abnormal hunger orientation) の単離を試みた。その結果、いくつかのaho 変異体を単離した。そのうち、aho-1変異体は、遺伝解析の結果、第1染色体にマップされることがわかった。いろいろな行動解析を行ったところ、NaClやいろいろな匂い物質に対する化学走性、匂い物質に対する順応に関しては正常な反応を示した。しかし、脱糞行動と咽頭のポンピング行動に関して異常を持つことが判明した。脱糞行動や咽頭のポンビングに異常を持つ変異体は、AHO表現型(飼育温度忌避行動)に関して正常であったことから、aho-1変異体の示す脱糞行動と咽頭のポンピング行動の異常そのものが、AHO表現型異常の原因ではないことが明らかになった。果たして、aho-1変異体は、満腹や飢餓を感じているのだろうか?行動学的に、この問いに答えることは、なかなか困難である。脱糞行動や咽頭のポンピング行動が、餌の有無に応じて変化することが知られているが、そもそもaho-1変異体では、それらに異常があるため、餌の有無の認識の指標にはできない。そこで、培地上の餌の有無に伴う運動性の変化を指標として、行動解析を試みた。餌の無い培地上で、野生型個体は活発に動き回り、餌の有る培地上では、逆に運動性が著しく低下する事が知られている。まだpreliminaryで はあるが、aho-1変異体も、野生型系統と同様な餌の有無に伴う運動性の変化が見られるという結果を得た。すなわち、aho-1変異体が単離できた事は、本研究の最大の目標であった「餌の摂取状況は認識できるが、記憶温度と関連付けられない変異体」が単離できたことを意味し、さきがけ研究期間中の最大の成果と考えている。線虫の温度走性というユニークな系が記憶・学習のモデルになるのではないかと着想した点は、本研究の独創的な点である。10年後を見据えた研究テーマであることが明白だったので、さきがけ研究に応募するに相応しいと考えた。とはいえ、言い換えると、さきがけ研究に採択されなかったら、構想だけで終わってしまったテーマだったかもしれない。それほど、恐いテ一マであり、チャレンジするには勇気が必要であった。研究を開始して最初の2年間は、飼育温度忌避行動異常aho変異体が単離できなければ、研究計画が砂上の楼閣で終わってしまうというあせりがあり、見切り発車的に突然変異体のスクリ-ニングを行っていた事が最大の反省点である。変異体のスクリ-ニング法を、研究の初期段階でしっかり確立しておくべきだった。結局、突然変異の候補体らしきもの は分離できるものの、確実に変異体と言える系統を確立できなかった。研究も、3年目に入る頃になって、野生型個体の温度走性について、原点に戻って詳細に解析し、変異体の単離法を再検討し、丁寧にスクリ-ニングを続けた結果、ようやく本物と言える変異株が単離できるようになってきた。今後の課題としては、まず、aho-1変異の原因遺伝子を分子レベルで同定することと、現在単離されている他のaho 変異体の遺伝・行動解析を進めることである。aho 遺伝子のクロ-ニングを、いかに効率良く有効に行うかは、今後の本研究の発展を大きく左右する要因であるので、熟慮しながら着々と進めていきたい。また、現在約3,600 ゲノムしかスクリ-ニングしていないので、近い将来、少なくとも1 万ゲノムをスクリ-ニングしたいと考えている。aho 遺伝子の遺伝子産物を同定した後の段階では、本研究において最終的に目指している遺伝学と生理学の包括的解析を行いたい。具体的には、温度走性の神経回路の活動の可視化も含め、aho 分子の機能を、神経回路上で明らかにしたいと考えている。
領域総括の見解:
 線虫の温度走性を利用した変異体を用いて、線虫感覚器の神経回路、学習、記憶を司る遺伝情報を同定してゆくもので、非常にユニークな魅力ある研究。苦心の甲斐あり、研究成果もあがりつつあり、変異体のマッピングが始まった。線虫のゲノムは解析が進んだので、このような機能を中心としたポストゲノムの研究の発展が待たれる。神経領域でも注目され始めている。今後、高等動物の学習や記憶の分子機構を解明する上においても大きな礎石になると思われる。
主な論文等:
  • Mori, I., Genetics of chemotaxis and thermotaxis in the nematode Caenorhabditis elegans. Ann. Rev. Genet.,33, 399 - 422 (1999)
  • Komatsu, H., Jin, Y-H., L-Etole, N., Mori, I., Bargmann, C.I., Akaike, N., and Ohshima,Y., Functional reconstitution of alpha and beta subunits of the C.elegans cyclic nucleotide-gated channels. Brain Research, 821, 160 - 168 (1999)
  • Coburn, C.M., Mori, I., Ohshima, Y., and Bergmann, C.I., A cyclic nucleotide-gated channel inhibits sensory axon outgrowth in larval and adult C. elegans: a distinct pathway for maintenance of sensory axon structure. Development, 125, 249 - 258 (1998)
  • Hobert, O., Mori, I., Yamashita, Y., Honda, H., Ohshima, Y., Liu, Y., and Ruvkun, G., Control of interneuron function in the C.elegans thermotaxis pathway by the ttx-3LIM homeobox gene. Neuron, 19, 345 - 357 (1997)
  • Bergmann. C. I., and Mori, I., Chemotaxis and thermotaxis, in C.elegans II, eds. Riddle et al., Cold Spring Harbor Press, Cold Spring Harbor, New York, pp.717 - 737 (1997)
招待講演: 6件 (国際学会3件、国内学会3件)

This page updated on March 30, 2000

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