研究の背景と内容


小脳と呼ばれる神経機構

 小脳は,後頭部の下の方に存在する(図1図2).小脳は身体を速く滑らかに動かすときや,運動技能の修得に重要な役割を果たすと考えられてきた.小脳における学習の仕組みをめぐって,相反する2つの学説がある.学習とともに,小脳に記憶が蓄積されるという説と,小脳は過ち(誤差)の修正に重要なのであって,記憶は脳の他の場所に蓄えられるという説である.前者の説は,伊藤正男氏らが唱えた説である.この2つの説を検証するために,私たちは,新しい道具の使い方を学習しているときの,人間の小脳活動を計測し,どのような変化が起きているかを調べた.

脳の活動を計測する方法

 脳活動の計測には,郵政省通信総合研究所関西先端研究センターの「ファンクショナルMRI」という装置を用いた.脳の細胞が活動すると,微少な血流の変化が起きる.この装置は,その変化がどの場所で起きているかを,ミリメートル単位の正確さで計測できる.

実験の方法

 実験で使った「新しい道具」は,特殊なコンピュータマウスで,マウスを動かす方向と,画面上のポインタが動く方向に一定のずれが生じるようにしてある.仕事やゲームで,マウスを使うことが多くなったが,例えば,マウスを上下逆さまにして,操作してみて欲しい.初めは戸惑うが,繰り返し練習することで,自由に動かすことができるようになる.コンピュータ画面に,動き回るターゲットを表示し,特殊なマウスを操作して,ターゲットを追跡するというゲームを,被験者に数時間にわたって練習してもらった.練習中の被験者の小脳活動を,ファンクショナルMRIで計測した.

計測された小脳活動の変化

 図3は,人間の小脳の断面図である.赤い枠で囲った部分では,練習の始めは,盛んに脳活動が起きていたが,練習が進むにつれて減少した(図4の赤い曲線).一方,青い色を付けた部分では,練習を充分にしても,あまり活動は下がらなかった(図4の青い曲線).図4の緑の曲線は,青い曲線と赤い曲線の差を示し,練習の始めはほとんど差がないが,練習するにつれて,次第に差が開いて行く様子がわかる.

小脳活動の変化は何を物語っているか

 さらに詳しい分析を行うと,図3の赤い枠で囲った部分の活動は,マウスの使い方に不慣れなために生じた,過ち(誤差)に正確に比例していた.つまり,図4の赤い曲線で示した活動は,誤差の情報を伝える役目を果たしていると考えられる.一方,緑の曲線は,誤差が少なくなるにつれて上昇していて,この活動は,練習によって修得された,「わざ」の記憶を反映していると考えられる(注1).

(注1)別な実験で,この活動が,単純な手の動きによるものではないことは,確認している.

小脳における学習の仕組み

 この研究が実証した小脳の学習メカニズムを,次のようなたとえ話で解説してみる.教室に,先生とたくさんの生徒がいるところを想像してもらいたい.この場合,先生は,脳の大部分を占める大脳で,生徒が小脳である.先生は始め,たくさんの生徒(図3の赤い枠で囲った部分)にまんべんなく教えているが,次第に,まともな答えを出す生徒(図3の青い部分)の周辺に,的を絞って教えるようになる.最終的に,他の生徒は居眠りをし,先生までが休んでも,一部の生徒(青い部分)だけで答えを出せるようになる.緑の曲線で示した活動は,先生からの教え(赤い曲線)を差し引いて,青い部分の生徒たち自身が出した答えを反映していると考えられる.面白いことに,先生は正解を教えるのではなく,生徒の間違い(誤差)を指摘するだけである.「わざ」の修得は,このような「淘汰」の結果であると言える.一方,他の道具の使い方を修得するときには,別の生徒たちが活躍すると考えられるので,得意分野を生かした個性尊重のシステムであるとも言える.

研究の意義と今後の展望

 実験結果は,冒頭で述べた2つの学説のうち,小脳に記憶が蓄積されるという説を支持している.小脳が誤差の修正に重要であるという説は,記憶は他の部分に蓄積されるという点で間違っていた.確かに小脳の大部分の活動(赤い曲線)は,誤差に比例していた.しかし,誤差による活動を差し引くことで,修得された記憶を反映する活動(緑の曲線)が検出できる.
 この研究は,小脳に記憶が蓄積され,その記憶は誤差の情報で修正されるという理論を,初めて人間の脳で実証したことになる.この発見は,心理学・神経科学の分野で重要であるだけでなく,工学的な応用も期待できる.例えば,使いやすいヒューマン・インターフェースでは,小脳の活動も早く減少するが,使いにくいインターフェイスでは,思い通り操作できないため,誤差を反映する活動が,なかなか減らないと予測できる.脳の活動を指標として,インターフェイスの使い易さを評価することができる.複雑な操作を必要とする機械が多くなってきたが,はしや,はさみのように,一度使い方を覚えれば,誰にでも,身体の一部のように自然に使えるインターフェイスの開発に役立つと期待できる.
 これまで小脳は,手を動かす,足を動かすなど,身体運動のコントロールに関わっていると考えられてきた.この研究では,身体と切り離された「道具」の使い方を修得するときにも,小脳に記憶が蓄積されることを示している.さらに,小脳は,言語の運用や,パズルを解くなどの思考課題を行うときにも,活動することが,他の研究で明らかにされている.小脳の細胞構造は,どの場所でも同じであることから,情報処理のメカニズムは共通していると考えられる.これまで,道具や言語の使用は,人間に特有な能力と言われてきたが,その基本的な学習原理は,身体運動の学習原理と共通しており,知性の連続的進化を物語っている.


This page updated on January 13, 2000

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