研究の背景と成果の内容および意義


背 景

 ヒト脳機能についてはさまざまな角度から研究が進められている。たとえば大脳の感覚野は知覚刺激に対する反応、また運動野では運動に付随した反応を直接調べることができる。しかし、最高次の大脳皮質である前頭葉の機能を直接的に調べる方法は少ない。脳腫瘍や外傷などで前頭葉が障害された患者さんの症状を観察してその元々の機能を推察し、また知的活動に随伴する大脳活性化領域のマップを作って機能分担を明らかにする方法によって、ヒト前頭葉機能の研究は進められてきた。しかし、これらのアプローチでは前頭葉がどのような信号を操作することによってその知的能力を産み出しているかはわからない。高次機能の中でも神経回路システムについての知見の豊富な視覚記憶系を対象として、霊長類(ことにサル)をモデルとした研究によって厳密な解析が可能となってきた。
 霊長類では、視覚にかかわる脳内過程はよく研究されている。後頭葉の初期視覚野では、対象が線分、色、動きの方向などの要素に分解され、側頭葉前方部の高次視覚野へ至る経路で脳内イメージ表象へと再統合される。下部側頭葉は物体視の中枢であり、視覚性の記憶はここに貯蔵されている。われわれは3年前に、視覚性の記憶を想起する過程で活動する神経細胞が下部側頭葉に存在するのを発見した[米国科学アカデミー紀要(Proc. Natl. Acad. Sci. USA 93, 2664-2669, 1996) ]。
 心表象プロジェクトでは、この側頭葉細胞の活動を引き起こす源を探索してきた。昨年、前頭葉には長期記憶の内容そのものは存在しないが、その想起の過程をコントロールする機能があることを行動心理学的に解明し、米国サイエンス誌に発表した(Science 281, 814-818, 1998)。このサイエンス論文では記憶検索を制御する何らかの信号が大脳前頭葉から側頭葉に到達している可能性が予測されていた(図1)。この予測の正否は大脳記憶システムの大域構造を決定するものであり、実験的検証がぜひとも必要であった。

成果の内容および意義

 今回、われわれはこの仮説の直接的検証を試み、視覚記憶の検索過程において大脳前頭葉が側頭葉に発信しているコントロール信号(注1)を初めて発見した。この実験ではサルを被験者として、視覚性長期記憶課題であるカテゴリー型連想課題をおこなわせた。この課題では、20枚の手がかり図形がある。これらの手がかり図形は、4枚ずつI〜Vのグループ(人工的カテゴリー)に分けられており、各々のカテゴリーには想起すべき選択図形が1枚ずつ対応している(図2)。20枚の中の1枚の図形を手がかりとしてサルに見せてやると、サルはその手がかり図形が属するカテゴリーに対応する選択図形を想起しなければならない。この実験で用いたサルは、脳梁の後半部と前交連を切断することにより左右の脳半球の結合が半分遮断されており、視野の左半分に物体を提示すると、右半球の視覚野のみが視覚一次野からの入力を受け(ボトムアップ入力)、左半球の視覚野ではそのような入力は受けない。左半球の下部側頭葉で応答がもしあれば、脳梁の前半部を通じて前頭葉から下部側頭葉へと至る経路から神経活動が伝わっていることになる(図3)。微小電極を用いた単一神経細胞記録によって、そのよう なトップダウン応答を示す神経細胞が多数発見された(図4)。トップダウン信号は、手がかり図形を見せた後の遅延期間には、手がかり図形そのものの情報ではなく、想起すべき選択図形に対応したカテゴリー情報をコードしており、サルが記憶を想起する際の認知的情報を伝えていることがわかった(図5)。以上により、前頭葉から側頭葉へ発信されるトップダウン的なコントロール信号を直接的に検出したと結論づけた。
 痴呆(たとえば、アルツハイマー型痴呆)の初期症状は多く健忘として発現する。また生理的老化にともなって特定の記憶対象(たとえば、人名)の想起能力が低下することもよく知られている。この想起できない記憶も、検索のための手がかりをうまく創りだすことによって想起可能となることが多い。記憶自身は大脳側頭葉に貯蔵されているが、こうした記憶検索の過程で大脳前頭葉から側頭葉に検索を制御する信号が出されていることが予想されていた。今回の研究により実際にこのトップダウン検索信号が発見された。この信号が検索の手がかりで創り出す役割を担っている可能性が高く、この制御信号の実体をさらに明らかにすることによって、記憶検索メカニズムの解明という基礎的研究にのみならず、臨床的にも大きな寄与が期待される。

注1)前頭葉がヒト大脳皮質の最高の中枢であるとの考えから「トップダウン信号」とよばれる。これは、通常の知覚認識の信号が、後頭葉から側頭葉/頭頂葉、さらに前頭葉へと流れることから「ボトムアップ信号」とよばれているのと対比される。


This page updated on October 18, 1999

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